セイカ様、これでよろしいのですか?」
「ん、ありがとう。………でも、本当に良かったの?」
「ええ。どうせ誰も覚えてませんわ」
「はは、そっか………」


おっとりとした笑顔でなかなか直球な言い方をするユーフォリアに苦笑いしながら、私は腕のなかにあるものに目を落とした。麻袋の中には、スコップと小さなジョウロ、そして細かく袋分けにされた植物の種子が入っている。それを一度抱えやすいように持ち替えて、空を見上げた。本日は快晴だが、予想では明日から天気が崩れ始めるだろう。その前にどうしてもやりたいことがあったので、こうして先日ひょんなことから縁が出来た女官、ユーフォリアに協力してもらったわけなのだが。


「園芸ですか?」
「ちょっと違うかな。でもまあ、そんな感じ」
「良かったら、手を貸しますけど………」
「ううん、平気。私一人でも大丈夫だから」
「そうですか? なら、ついでにこれも。さっき、私の部屋で見つけましたの」


そう言って、ユーフォリアは私が抱えていた麻袋のなかに、小さな袋をもう一つ追加した。貰ってもいいのかと訊くと「どうせ使いませんから」とやはり無邪気な笑顔で言われた。この人、本当に真っ直ぐに言う人だなあ。それから幾つか言葉を交わして、私はユーフォリアと別れる。そして、教皇の間を通って双魚宮の下まで降りると、そこから裏道へと入った。普段は使われない、そもそも知っている人間も少ないであろう秘密の抜け道というやつである。それはぐるりと、教皇の間を迂回してアテナ神殿の更に奥へと向かう。


「………いつ、来ても、ここは、きつい、なっ………!」


最初はなだらかだった道も、次第に傾斜をきつくして険しくなってくる。ただでさえ体力がないというのに、今日は荷物まで持っているのだから、労力は倍だ。この頃は身体の調子も悪いから、正直しんどいと叫びたくなる。それでもなんとか木の枝などに手をかけて上っていけば、実にあっさりと視界は開けた。標高が高いからか、風が強い。吹き付けた強風を、私は目を瞑ってやりすごす。汗ばんだ肌にその風は気持ちよく、風が止んだのを見計らって目を開けた。そこには、特に特筆すべき美しさもなければ、素晴らしい風景もない。ただ、聖域がよく見渡せて、一面に若草が揺れているということだけ。そして、その中に三つ、無骨な石が並んでいる。それは名前が刻まれているわけでも、細工がされているわけでもない。それが、アローンとサーシャとテンマの墓石だった。けじめをつけるためにと、私がシオンに頼んだものだ。


――――久しぶり。ここも、だいぶ賑わってきたよ」


ざらついた表面を撫でながら、私は微笑んだ。こんな風に、誰に向けるわけでもなく自然と笑えるようになるまで、随分とかかった。三人がここに眠っているわけでもないけど、それでも私にとって、ここは三人に会える場所だ。荷物を下ろして肩を回す。少し息をついて、空を見上げる。雲の流れが速い。もしかしたら、今日の夜には雨が降り始めるかもしれない。


「今日は、三人に贈り物を持ってきたんだ。ここはちょっと殺風景だからね」


荷物を漁って、私は小さな袋を取り出した。中から出てきたのは二つの種子。ユーフォリアからもらった方は、この形から察するに多分勿忘草だろう。もう一つの方は、私が彼女に頼んで用意してもらったオリーブの種だ。これでちゃんと芽が出るのか少し不安だったが、苗を調達する余裕もなかったのだから、これで許して欲しい。こちらも幾つかあるので、まあ、下手な鉄砲数打ちゃ当たる方式で、一つでも芽が出たら僥倖ということにしておこう。


「さて、と。さっそく取り掛からないとね」


小さなスコップでは心もとないが、私はとりあえず、墓石の周りの土を掘り返し始めた。ここは禁足地の近くであるからか、人の手が一切加わっていないが、土は柔らかくそれほど手間はかからない。野菜でも栽培すればさぞ実りが出るだろうと思いつつも、私は土に塗れた手で額を拭った。種を万遍なく蒔き、薄く土を被せる。そして、墓石の後ろにはオリーブの種を少しずつ間隔を開けながら埋めていった。それが終わるころには、太陽はだいぶ傾いていて、墓石の周りはぐるりと茶色の土が露出していて、思わず笑ってしまう。


「なんだか、荒したみたいだな………。でも、どうしてもやっておきたかったんだ。私が、ここに来られなくなる前に」


土で汚れた手で水晶を直接触るのは躊躇われたので、そっと服の上からその輪郭をなぞるだけで留めておく。あの別れの際、サーシャは呪いを遠ざけられるのは数年と言った。本当なら、あのまま再び冥府の牢獄に幽閉されるはずだった私の魂が、ここにいられる時間。あれから、もうじき三年になる。そして、その限界がそろそろ来ているようだった。


「この頃ね、まともに左半分が動かせないんだ」


特に困るのが、左目の視力がほとんどなくなっていることである。そのおかげで、視界の左半分はすでに死角同然で、よく柱や机にぶつかるのもその所為なのだろう。手足だって、しっかりと力を入れないとペンさえ持てない。けれど幸か不幸か、まだ周りには悟られてはいない。シオンだってユーフォリアだって、きっとまだ気が付いてないはずだ。だけど、直にこの身体は動かなくなるだろう。衰弱し始めてからでは遅い。だから今日、私はここに花を植えに来た。まだこの身体が自らの足で立ち上がり、歩めるうちに。


「私がいなくなっても、シオンが花を添えにきてくれるかもしれないけど――――。きっと、私にとっては、今日が最後かもしれないから」


朝起きると、左目が完全に見えなくなっていた。だからここに上ってくるのも、多分もう無理だろう。転生を繰り返すたび、生まれる場所も時代も違えど、その人生はまるで劣化した焼き増しのようなものだった。容姿や何気ない事で異端の扱いを受け、迫害され人の目につかない所に住み、ある日突然理不尽な暴力で命を落とす。心当たりや原因があることもあれば、本当に唐突に意味も解らず殺されることもあった。何度生きても、そういう星の下に生まれてきてしまう。運命というものがあるのならば、まさにこれこそが運命をいうやつだろう。今回もそんな死に方か、或いはそれに準ずることが起きるのかと思っていた。実際、そういう暴力に晒されそうになったことも何度かあった。聖域での私は嫌われ者だ。あの聖戦は、人の心に希望を遺し、同時に憎しみの一粒を落としていった。それらが消化されるには、三年という月日はまだ短いということだ。そのどれもがシオンに気付かれないように処理出来たのは、不幸中の幸いというものだろう。シオンが知ったら、きっと激怒して執務どころじゃなくなる。自分のことでいらぬ心配など掛けたくはなかった。だからこそ、聖域が落ち着いて来たらここから身を引いて、シオンの与り知らぬところで、また誰かの手で命を刈り取られるまで待とうと思っていたのだが―――、今回は、今までには有り得なかったことが多すぎて。


「………私も、三人と同じ場所に行けたらいいのに」


この身は裁きを受ける権利さえ持たない。冥界には行かず、そのままタルタロスへと落とされる。彼らの名前が刻まれるのは、きっと聖域に残される聖戦の記録の中だけだろう。いや、もしかしたら、サーシャの名前さえ残らないかもしれない。この聖域において、彼女は『アテナ』で『サーシャ』ではなかったのだから。サーシャとしてではなく、アテナとして名を残すのであれば、私たちが覚えておくしかない。この心にある欠落が、彼らのいた場所。一番大切な深い場所は―――こころのみなもとは、貴方にあげてしまったから。


「大丈夫。忘れないよ。ずっと、待ってるから」


この欠落を人は傷と呼ぶのだろうか。だったら、私は永遠にこの傷を癒さずにいよう。そして、またこの世界に生まれ落ちよう。三人が守った世界に。貴方が愛したこの世界に。


――――それが、約束ならば。











裏道を戻っていく。下りはまだ、昇りと違う怖さがある。一度足を踏み外すと、そのままどこまでも転げ落ちてしまいそうだ。だからといって、すでに左半身がなかなか言うことを聞かない私にとって、この道程はかなり厳しいものだったらしい。捕まろうとした枝が、実はもうちょっと先にあったって言う、なんとも間抜けな話。


「………っ!」


悲鳴をあげる余裕さえない。もしかしたら、今ここで死んでしまうのかも、と嫌な考えが頭の中を過ったが、それを自覚したのは、私の身体が地面にぶつかった衝撃―――ではなく、誰かに受け止められた反動を感じたときだった。ぶらぶらと揺れる足が地面についていないことを確認して、そろそろと目を開ける。そこには、呆れたような怒ったような、でもやっぱり絶対に呆れているであろうシオンの顔があった。なまじ整っている分、無言の視線で責められると迫力がある。


「………」
「………」


ここは謝るか礼を言うべきなのだろうけど、このまま会話の火蓋を切って落とすと絶対に説教コースと思った私は何も言えず、ただ視線を彷徨わせながらなんとか沈黙を引き延ばすことしか出来なかった。そんな私の態度をどう取ったのか、シオンは小さくため息をついて、すたすたと歩き始める。もちろん、私はシオンに抱きかかえられたままで、これはさすがに耐えられないと私は慌てて声を出した。


「し、シオン。下ろしてくれると助かるんだけど」
「駄目だ」
「え?」
「断ると言ったのだ」
「………」


そういえば、昔もこんなことがあった気がする。あの時は確か手に怪我をしていて、マニゴルドさんに人間キャッチボールをされたときだ。あの時は慌てながらすぐに下ろしてくれたのに。可笑しいな。教皇になって図太くなったのだろうか。シオンは長い法衣の裾を綺麗に捌きながら歩いていく。本当に、様になったものだ。


「お、下ろしてください」
「下ろしたら逃げるだろう」
「逃げません。逃げませんから」


思わず、昔の口調に戻る。私の言葉から敬語が取れるまで、どのくらい掛かったことだろう。ふるふると首を振ると、シオンの髪が頬をくすぐって少し笑いそうになった。というか、笑ってしまった。しかし、確かにこのままでは聊か不味いのだ。ただでさえ、私という存在は他の人間から疎まれているのに、こんな所を見られたらシオンと私が、まあ、いわゆるそういう関係であると誤解を受けてしまう。そんなことともなれば、恰好の攻撃理由を与えてしまうだけだということは、頭のいいシオンなら分かっているだろうに。そして、その予想は外れることなく、抜け道がもう少しで双魚宮の所に繋がるという場所で下ろしてくれた。出来れば、一緒に出ていくところも見られたくないので、先にシオンに行ってもらおう。


「じゃあ、先にシオンが行って、後から私が行くよ」
「………隣を歩くことも許されないとはな」
「は?」
「なんでもない」


何故だか不機嫌そうな顔をすると、シオンは私の頭を叩いた。なんだか、この頃のシオンはいつもこうだ。………そういえば、なんでシオンは私がここにいるのが分かったのだろう。立ち去っていく背中にそう訊いてみたら「お前の考えなどすぐ分かる」と返された。そこまで私は単純だということだろうか。シオンの姿が消えてしばらくその場でぼーっとしていたが、そろそろいいだろうかと思い、木々に蓋をされていた洞穴のような道を抜ける。雲が多くなってきたのか、太陽はすでに隠れていた。ふと、顔をあげた世界が色を亡くして見えた。きっと、太陽が陰った所為だろう。私はそう結論付けて、足を進めた。




13'11'06
17'03'01 改訂