目の前が真っ暗だ。その暗闇から逃げようと咄嗟に身を引いたのだけど、あえなくそれも後頭部に添えられた手で妨げられる。きっと、それが悪かった。ひんやりとした手。それが私の瞼を強制的に下ろして、視界から光を奪っている。だけどそれは片目だけであり、もう片方の目はしっかりと開いているのだから、怯えることなどないのだ。そう、普通に両目が健やかならば。


「いつからだ」


シオンの端的な質問。その声色と問いに、ああ、遂にばれてしまったのだと悟った。いつかはばれると思っていたけれど、あともう少し、せめて次の季節が来るまではと思っていたのに。こうなると知っていれば、もっと早く身を引いておくべきだった。ここから離れておくべきだった。けれど、この場所があまりにも心地よくて、三人がいたことを感じられるここを離れるのが嫌で、私は欲張ってしまった。欲張って、満たされることを覚えてしまった。今、目の前の彼はどんな顔をしているのか、それさえも分からない。だから、渇いた瞳が痛んだような気がして、目を閉じた。それでも、何も変わらないのだけど。この瞳は、もう何も映せないのだから。


「ごめんね」
「お前は………!」


びくり、と肩が跳ね上がる。殴られると思った。シオンがそんなことするはずと分かっていても、それでも長年で染みついた習性は、仮令心が欠けようと満たされようと変わらなかった。後頭部に回された手に力が込められて、頭を抱えるみたいに抱きしめられる。椅子に座った姿勢から、腰が少しばかり浮かび上がる。人間と言うのは、どうして他人の体温を感じるとこうも安心してしまうのだろうか。強張った身体から少しずつ力が抜けていって、シオンの腕に触れてみる。


「ごめんね、シオン」
「謝るな」
「うん。ごめんね、ごめん、シオン。私、」
「言うな。聞きたくない」
「私、もう「セイカっ!」


長くないんだ、と告げる為の喉が凍った。それは、シオンが私の名前を呼んだからか、それとも、私がその言葉を言いたくなかったからだろうか。だけど、そう考えることが酷い罪悪のように思えて、私は目を瞑った。目を瞑ったのだから、そこにあるのは闇だけだ。だけど、目を凝らすとそこには不思議と漣があって、これが自分の内側なのだと思うと、とても不思議に思えた。もうすでに私の内側は、半分しか見えない。私のもう半分は、もうすでにこの場所ではない場所にあって、そこからずるずると、ずるずると、奈落へと引きずられていく。


「シオン」


名前を呼んでみる。いつ気付いたのだと訊くと、たった今だという。なんだ、そうなんだ。なら仕方ない、と私は笑った。もう限界だったのだろう。アテナの加護があったとしても、魂を肉体に繋げておくのは、至極難題だったに違いない。シオンの腕を解いて顔をあげると、シオンはきつく唇を結んで、私を見下ろしていた。私の死を悼んでくれる人がいるという事実に、胸が痛む。誰かが死ぬことで悲しむ人がいるというのは、きっと当たり前のことで、だけどそんな当たり前のことを、私は初めて知って、その痛みに臓腑が潰れそうになった。


「ごめんね、シオン」
――――謝るなと、言っているだろう」
「うん」
「あと、どのくらいなのだ」
「どうだろう。分かんないけど、正直、もう動くのも、ちょっときつい」
「………そうか」


急に、シオンの顔を見るのが怖くなった。だから目を逸らして、俯いてみれば、そのまま床が抜けてどこまでも落ちていきそうな錯覚に見舞われる。シオンの手が頭を撫でた。自分が、こんなに優しく他人に触れられることに、今は不安しか感じない。この不安はどこから来るんだろう。なんだか無性に、アローンに会いたくなった。もういないのに、どうしようもなく胸の中は空っぽで、他人の優しさがその輪郭をなぞってくる。誰かが私に優しくする度、何かに私が心を動かす度に、そこにはアローンがいて、その空洞が少しずつ広がっていく。いつの日か、私の中身は空っぽになってしまうのだろうか。アローンが残していったものは、私にはあまりにも優しすぎて、だから、その光が照らす程に、影も濃く強くなっていってしまって、そこから這い出てくるものが、遅効性の毒のように、私から呼吸を奪っていく。


「………、」


ふと、どうしてあの人はここにいないんだろう、とか。
そんなことを考えてしまうのは、きっと死に怯えるなんて、慣れないことをしている所為だろう。











幸せか、と訊けば、きっと彼女は小さく笑いながら、幸せだよ、と答えるのだろう。彼女のその幸せはまるで張りぼてで、それでもその張りぼての幸せでさえ彼女は今まで手にしたことがなかったのだ。あれから、彼女は今までの挙動が嘘だったかのように衰弱していった。一体、今までどれほどの無理を通してきたのか。日に日に弱っていく彼女は、それでも美しかった。むしろ、今纏っている儚さこそが、彼女の根源ではないのかというぐらいに、そう、その光景は泣きたくなるぐらい彼女に相応しかった。死の淵にいるときが一番美しいなどと、哀しさよりも先にその幽玄さに見惚れてしまいそうになる度に、彼女が次の瞬間には消えているのではないかと思えるぐらいだった。だからこそ、部屋に入りそこにまだ彼女の姿があることに、救いに似た感情さえ覚えてしまう。彼女は会うたびに執務の心配をしていたが、ユーフォリアがセイカの役割を引き継いでくれたというと、いたく驚き、安堵していた。


「まー、話したときはすごく泣かれたから、そっちも心配だったんだけど。なんとかなって良かった」
「お前はいつだって行き当たりばったりだからな」
「まあね。今までそういう生き方してても、あまり支障がなかったんだよ」


と、セイカはふと何を思い立ったのか、アテナの加護が宿った水晶の首飾りを外すと、小さく私を手招きする。どうしたのかと少し身を乗り出せば、流れるような仕草で彼女はその首飾りを私の首へと下げた。セイカは私の胸元で揺れている水晶を愛おしげに見ながら「よく効くお守り。アテナのご加護付きだよ」と悪戯っぽく笑った。その笑みは、初めて会ったときに向けられたものと寸分違わず、だからこそ、彼女がもうすぐ私の傍から離れるということが信じられなかった。けれど、遠ざかっていくときに掴んだその手首の細さと冷たさに、否が応でも現実を突きつけられる。嗚呼、もうすぐ彼女は死ぬのだ。私を遺して。逝ってしまうのだ。


「それ、シオンに持ってて欲しいんだ」


時折、彼女の口調には少年のそれが混ざる。この頃は神官たちと話すことが多かったからか、あたり障りのない女性らしい柔らかな口調で話していたが、自分と話すときは子どもっぽく、女らしからぬ口調に戻る。その響きは、さらさらと毀れていく硝子の砂を思い描かせるようなものだ。


「だが、これは………」
「うん。それは、私とアローンとテンマと、サーシャの絆。最後まで私を支え続けてくれた、アローンと繋いでいてくれた約束の証。だけど、それは持っていけないから」


微笑んでいたセイカの頬に、涙が伝う。俯くと、伸びた前髪が表情を隠して、シーツの上に雫が模様を描いた。手首を掴んでいた指がそっと解かれて、逆に彼女に引き寄せられる。きっと彼女は握りしめているつもりなのだろうが、それは緩く私の指の上で折れ曲がるだけで、震えることもしなかった。ひくっ、と彼女は一度しゃくりあげて、小さく呟く。怖い、と。


「怖いんだ。今まで、死ぬことなんて怖くなかったのに。どんな痛くても苦しくても、死ぬことに恐怖なんて感じなかった。どうでもよかった。いつだって死ぬときは一人で、悲しむ人なんていなくて、私だって、未練なんて一つもなくて、だけど、今はすごく怖い。次生まれてきたとき、私はちゃんとアローンのこと、覚えていられるかな。サーシャやテンマと一緒に笑ってたこととか、シオンと話した何気ない会話とか、そういうのが、死んだら全部消えちゃいそうで、忘れちゃいそうで、また生まれてきたとき、私はちゃんと私でいられるかなとか」
「………セイカ
「知らなかった。死ぬことがこんなに怖いなんて、知らなかったんだ。何度も繰り返してきたのに、今まで、私は何度も生まれて何度も死んで、だけど、一度だってこんなに怖いと思ったことなんてなかったのに」


顔をあげたセイカは、怯えと恐怖に唇を震わせながら私へと縋りつく。恐ろしいと、怖いと繰り返しながらその弱さを披歴する。その頬に流れる涙を拭ってやると、真珠のような雫は尽きることなく彼女の頬を濡らしていく。彼女が泣くところを何度か見たことがあるが、こうして触れるのは二度目だった。一度目は、聖戦が終わり彼女が目覚めてから。その涙は温かく、しかし私の指に触れると、途端にその温度を失っていく。片手で拭うのが物足りなくなって、そっと両手で包み込む。そのままそっと彼女の顔を引き寄せて唇に口付けてみれば、驚きでぴたりと涙が止まっていた。一瞬の、触れるだけの口付けで、今度は私が泣きそうになった。


「私が待っていよう」
「お前が、また生まれてくると言うのなら」
「お前が、また戻ってくると決めたのなら」
「お前のことは、私がずっと覚えていておこう」
「お前が忘れてしまったのなら、私が思い出させてやろう」


ああ、だからどうか。この願いがほんの少しでも、彼女の救いになればよいと。


「今度は、私と約束してくれ」


最後の一滴が、彼女の月色の瞳から流れる。彼女は驚いたまま、目を見開いて、幼い色の残る表情を更に幼くして私を見ていた。それが可笑しくて、少しだけ、私は笑った。きっと彼女は戻ってくるのだろう。アローンと交わした約束の為に。それでもいい。そこに私がいなくても、気が遠くなるように長い時間のなか、たった一瞬だけでも、私が彼女の帰ってくる場所になれれば。戻ってくる理由のなかに、一欠片でも、私があれば。そう願うくらいなら、許されるだろう。


――――もう。みんな、約束したがる」
「そうでもしないと、お前はすぐにふらふらと寄り道をするからな」
「失礼な。寄り道をするのは、誰も私を捜してないときだけだよ」
「なら、これから私はずっとお前を捜し続けよう」
「なるほど。ならもう、寄り道はできないや」


可笑しそうに笑って、彼女は最後に「ごめん」と言った。この想いは最後まで打ち明けないつもりだった。彼女の中にアローンがいる限り、私の思慕を伝えても、それは彼女を苦しめるだけのものになる。そう分かっていたから、ずっと隠しておくつもりだった。けれど、今、もうすぐ死に逝く彼女を目の前にして、もはやそんな思いやりなどでは誤魔化し切れないほどに、彼女への想いは膨れ上がっていた。彼女はもうすぐ死に逝くという。私は卑怯なのだろう。受け入れられないのならば、せめて知っていて欲しかったなどと、それは私の我儘だ。彼女を困らせることも、苦しませることになることも承知で、それでも私は彼女の中に自分と言う存在を刻み付けたかった。例えそれが痛みとしてであろうとも、苦悩であろうとも。再び帰って来た時、もう一度彼女の唇で自分の名前を呼んでもらうために。


「ねえ、シオン」
「なんだ?」
「私、幸せだったよ」


翌朝、彼女はその瞳を永遠に閉じた。まるで眠っているようだったが、事実、私にとってそれは少しばかり長い眠りのようなものだった。おそらく、私は泣かないだろうと思っていたが、案の定泣くことはなかった。幸せだったと笑って逝った彼女が戻ってくるのを、私はいつまで待つことになるのか。いつか、彼女がまたあの黒髪を揺らしながら自分の前に立つのを、約束通りに待たなければならない。けれど何故だか、私の中にはもう一度彼女に会えるという、予感といわず予知といわず、確固とした確信があった。


――――セイカ


約束通り、私はいつまでもお前を捜し続けよう。お前が迷わないよう、この聖域を守り続けよう。胸元に揺れる透明な輝きを握りしめる。やがて来るであろう彼女にこの首飾りを返すときを想いながら。











――――そして少女は、再び楽園の夢を見る。





13'11'06
17'03'01 改訂