がつっ、と鈍い音がして、中空に白い書類が舞う。それは紙吹雪のようにひらひらと左右に揺れながら床へと散らばり、その中心には額を押さえて蹲っている影があった。痛みに耐えているのか、ふるふると肩を震わせる様からは、必死に悲鳴を押し殺していることが切実に伝わってくる。その音は聞いていたこっちまで額を押さえたくなるような、そんな痛そうな音だった。その痛みを受けている人物は、のろのろと腕を伸ばして、書類を拾い始める。周りの女官たちは、それを遠巻きに見ているのもバツが悪かったのか、だからといって助けるわけでもなく、そそくさと各自の目的地へと向かっていった。


「………うう」


その呻きも涙も、見放されたことへではなく、ただ単純に痛みに反応しているだけである。しかし、この情景だけ見れば、彼女が周りから敬遠されていることは明らかで、少女に向けられる不穏な視線も少女が周りからどのような評価を受けているかを如実に表していた。少女もそれを承知しており、特に気にしている様子もない。淡々と書類を拾いあげ、最後の一枚に手を伸ばしたところで、す、と横から手が伸びてきた。


「はい、どうぞ」
「あ………ありがとう、ございます」


女官の一人なのだろうか。白いキトンの衣装を纏っているその人は、セイカと同じ年齢か、少し上ぐらいに見える。まさか手伝われると思っていなかったのだろう、セイカは驚きながらも、その書類を受け取った。枚数を確認して、すべてあることに安堵する。


「全部ありました?」
「あ、はい。ありがとうございます」
「いえいえ、それよりもおでこ、大丈夫ですか?」
「………見てました?」
「はい。ばっちし」


ふふ、と可憐に笑う女官に、セイカは赤くなっているであろう額に手を当てて、自分の失態を顧みて、誤魔化すように苦笑いを浮かべた。ふと、女官は赤くなっている額を隠していたセイカの手をそっとどけて、前髪をかき分ける。うっすらと血が滲んでいる傷口に、女官は目を丸くして「あらあら」とため息交じりに言った。


「さあさ、こっちへ」
「え、あの」
「血が出てますよ。せっかく綺麗なおでこなんですから」


ゆるり、とセイカの手をひいていく女官。その独特の動きのリズムは、草原に吹き抜ける柔らかな風を思い出させた。舞踊でもしているのか、身体の隅々の動きまでゆったりと優雅であり、一定のリズムを感じさせる。セイカはその動きに断るタイミングを逃してしまい、あっという間に女官のペースに乗せられてしまった。引っ張られながらも、セイカは手を引く女官に声を掛ける。


「どこに行くんですか?」
「私の部屋です。狭いですけど、我慢してくださいね」
「それはさすがに………」
「あら、どうして?」
「私、神官院や女官院には受けが悪くて」


正確に言えば、神官院の不信に女官院が影響されているという形なのだが、この際そのような些事はどうでもいい。元々、教皇宮と神官院は対立する立場にあった。この聖域にあるのは、各祭事を取り仕切る神官院と、女神を守る黄金聖闘士を始めとする全聖闘士達を統括する教皇宮。表立っての政務が多く、外界との接触を行うのは神官院だが、聖域が女神を守護する地である以上、必然的に権力は全聖闘士達の頂点に立つ教皇に集まることとなる。それ故、神官院は教皇院が行き過ぎた権威を持たぬよう、必要以上に教皇派を敵視しているのだ。そして、現状において、教皇が入れ替わり聖戦によって聖闘士の数も削れた教皇宮の権威は失墜していると言ってもいい。復興が遅れているのも、これを足掛かりに神官院が聖域における影響力を強くしようという画策が行われているのではないかという推測が飛び交う程だ。そして、セイカはそんな神官院の批判の槍玉に上がっている。前聖戦において、冥王軍と関わりを持っていた者。一部の人間から裏切者だと揶揄していることも、セイカは承知していた。そして、神官院との繋がりが密接な女官院も、神官院のあからさまな態度に波風を立たせることもできない。そんな状況で、彼女は自分を女官の宛がわれた部屋に連れていくと言っているのだ。セイカは自分の醜聞をいともあっさりと打ち明け、相手もまた、軽やかに受け流した。


「これはわたくしの個人的な御付き合いですもの」
「でも、やはり変な噂が立ったりしますから」
「そういうものですか?」
「そういうものなんです」
「困りましたね」
「ですから、私のことは「あ、それならこちらに行きましょう」


セイカの言うことになど聞く耳持たないというように、女官はやはり優雅な動作でセイカの手を引いていく。キトンの裾がふわりと揺れる様は、妖精が華麗なダンスを踊っているようにも見えた。しばらくすると、教皇宮を抜けた先、アテナの奥神殿へと続く回廊を外れた場所へと辿り着く。ここまでは冥王軍の手は伸びていないらしく、目立った損害はない。この場所だけ、外界よりもゆったりと時間が遅く進んでいるようだった。


「はい、どうぞ」
「………ありがとうございます」


女官はセイカをオリーブの樹の根元に座らせて、ぱたぱたとどこかへ走り去っていく。無言で立ち去るわけにもいかず、セイカは書類を持ったまま所在なさげにぽつんと彼女を待った。次にこちらに向かってきたときは、女官はその手に包帯などを持っていて、セイカの前に座ると手際よく傷口を濡れた布で丁寧に拭き、薬草独特の匂いがする軟膏を塗ってその上からガーゼを被せた。ぐるぐるとガーゼがずれないように包帯を巻かれ、これではまるで怪我人だ、と、セイカは綺麗にしっかり巻かれた包帯に手をやりながら思った。そんなセイカの心情を見越してか、女官はやんわりと笑って答える。


「そのくらい大仰の方がよろしいのですのよ。明日には取ってもよろしいのですから」
「そうですか。本当、なにからなにまで。――――えっと、」
「わたしくはユーフォリアを申します。セイカ様」
「様なんて付けないでください。私はそんな身分ではないんですから」
「癖なんですの。大目に見て下さいませ」
「………はあ」


口元に手を当てて上品に微笑む彼女に、セイカは砂を噛むようなはっきりとしない答えを繰り返した。オリーブの樹が枝を揺らし、地面に落ちてくる木漏れ日の形を変えていく。この場所にいると、まるで聖戦など無かったかのようだ。戻ればまた、サーシャがいて、シオンは牡羊座の黄金聖衣を纏っていて、テンマは時折耶人とケンカをしながらも童虎と訓練をしていて、皆何一つ変わらず、アローンだって――――


(………駄目だ。疲れてるのかな)


そんな夢想が脳裏に過ぎる。在りもしない幻想だと、もうすでに叶わない夢だとセイカは首を振ってその幻想を頭から追い払った。あれからもう、三年が経とうとしているのに。さわさわと葉の擦れる音を聴きながら、セイカはオリーブの幹に寄りかかって天を仰いだ。オリーブはアテナに縁ある樹木だ。その昔、アテナとポセイドンがアッティカの守護神の座を争ったとき、ポセイドンは塩水を、アテナはオリーブの樹をその土地の人間に与え、どちらが役に立つかで勝敗を競ったという。人々はオリーブを選び、アテナは人々から絶大な崇拝を集めるようになった。オリーブの花言葉である「平和」と「知恵」は、きっとこのエピソードから来ているのだろう。それはあくまで創作としての神話のなかでの話で、実際は、ポセイドンと争ったのが最初の聖戦だという。


「ではセイカ様。わたくしに、一つ提案があるのですが」
「提案、ですか」
「はい。実はわたくし、かねがねセイカ様のお噂を聞いておりまして」


そのほとんどが、おそらくはあまり良い内容ではなかったと思うのだが、ユーフォリアはきらきらと目を輝かせながらずい、とセイカの方へと身を寄せてきた。あまつさえ、後ずさろうとしたセイカの手をがっしりと握り、おっとりとした微笑みを浮かべて彼女は『提案』を口にした。


「わたくしと、お友達になって欲しいのです」
「………と、とも………?」
「はい。お友達です」


その響きに、セイカは混乱に身体を強張らせた。お友達になりましょう、と。その言葉を自分が言ったことはあれど、他人から言われたことなど皆無と言っていい。ただ一度、アローンから言われて以来の言葉だった。テンマとは気が合うのが早かったからか、そんなことを口にすることもなく友人という立場になっていたし、サーシャには自分から友達だと言った。今思えば、地上の女神相手にすごいことを言ってのけたものだとあの時の自分の無謀さを思い知る。


「私でいいんですか?」
「はい。というか、誰でもいいです」
――――それはまた」


随分な博愛主義もあったものだと、セイカは苦笑した。不特定多数の他人と同列に見られることを厭う人間もいるだろうが、セイカにとって、それは幸福なことだった。取られた手を一度解き、今度はこちらから握り返す。セイカからの握手にユーフォリアはゆっくりと笑って、よろしくお願いしますね、と一つ言った。











セイカ、どうしたその傷は」
「………友情の証?」
「は?」
「柱にぶつけただけだよ」
「………また正面衝突か」
「面目ない。………だっ!」


言っている側から、セイカは足を机にぶつけて蹲る。そんな注意力散漫になるほど疲れているなら休めとシオンが口を酸っぱくしていっても、セイカは笑って大丈夫と繰り返すだけで、確かによくどこかにぶつかったりはしているものの、顔色が悪いというわけではない。動きに重さがあるわけでもないし、注意力散漫な所以外は何の不調も見られない。


「おい、大丈夫か?」
「だ、大丈夫、大丈夫」


言いながら首を振るセイカは涙を滲ませて、小さく身体を震わせている。打ち所が悪かったのか、しばらくその場から動かず、あー、うー、と小さく唸っていた。そんなセイカの様子を、シオンは書類を処理する手を止めて見る。腕に持った書類を抱きしめ、必死に眉間に皺を寄せて痛みに耐えている様子は、本人には悪いが可愛いらしい。彼女が不意に見せる幼い表情に、常日頃から張りつめている緊張の糸が緩む。神官や聖闘士達と向かい合う彼女は、年不相応の隙など一つもない表情を見せる。凛としているというよりも、相手に内心を悟られないようにするためのものだろう。彼女の美貌は、表情が消えると更に際立つ。無表情の彼女を目の前にすると、その血も凍るような美貌に、彼女が人間だということさえ忘れそうになるのだ。それが自分の前でだけ解けるというのは、例えようもない優越感を感じさせてくれる。セイカもシオンの笑みを見て、むすりと口を尖らせて書類を渡す。


「何笑ってるんですかー」
「いやなに、神官たちに見せたらどんな反応をするかと思ってな」
「そんなヘマしないよ。言っておくけど、中身だけならシオンより年上だからね」


幾度と転生を繰り返してきた彼女にとって、長寿が望めないとて生きてきた年数を単純に足していけば、優に四桁は下らない。その言葉の意味することを知っているシオンだったが、その言葉を受け止めることに憂いや憐憫を表には出さない。彼女を憐れむ感情が無いわけではない。だが、彼女は自らそれを選んだ。確かに与えられたきっかけは彼女が望んだものではなかったかもしれない。けれど、少なくともここにいることは、彼女自身が選んだことだ。どんな責苦に貫かれようと、ただ一つの約束を守ろうとして何度も報われぬ人生を選んできたのは、間違いなく彼女なのだから。それを安易に憐れむのは、彼女への侮辱にしかならない。


「今日はこれでおしまいだから」
「ああ、すまないな」


差し出された書類は各国に散らばっている聖闘士達からの報告書だった。真っ先に聖域に帰って来た者もいれば、その土地の復興に従事しているものもおり、その他の事情で聖域に帰ってきていないものもいる。耶人やユズリハなどがその例だろう。その聖闘士達が定期的に送ってくる報告書は様々な言語で書かれており、分かるものはセイカに翻訳を頼んでいた。


「それじゃあ、私はちょっと書庫まで行ってくるね」
「ああ、そのままあがってもいいぞ」
「了解。あだっ」


シオンの方を振り向きつつ手を振って、また左肩を扉にぶつける。その様子に苦笑を浮かべながら、シオンはセイカの持ってきた書類へと目を向けた。




13'11'06
17'02'24 改訂