セイカさん!」
「あ、テネオ君」


教皇宮の外回廊を歩いていたセイカに元気な呼び声がかかる。書類の数を確認しながら歩いていたセイカがその束から顔をあげれば、視界に抜けるような青い空が映った。そして、その青空の下を走ってやってくる青年に足を止める。駆けてくるテネオはもう黄金に輝く聖衣に委縮することなく、その立ち振る舞いに纏うことへの気後れなど感じられない。セイカは一旦懐かしげに目を細め、やってくるテネオに小さく微笑んだ。


「お疲れ様。村の方はどうだった?」
「はい。建物の復旧も終わってますし、もうほとんどの人が戻ってきてます」
「そっか。あの辺りは、特に冥闘士が頻繁に荒してたからね………」


今日テネオに視察を頼んだ村は、地形的にもなだらかで、聖域へと特攻する冥闘士達によってかなりの被害を被っていた。二年と言う歳月でどれほど復興できるのかという不安もあったが、なにより、あそこにまた以前のような人々の活気が戻ってくるか、セイカはそちらの方を危惧していた。だが、そんなセイカの心配など無駄だと言うように、聖戦が終わった後、少しずつではあったが各地に散らばっていた住人達が戻ってきたのだ。それは聖域への信頼と愛情の現れだと思うと、嬉しく思わずにはいられない。自分のことのように喜ぶセイカに、テネオの表情も明るくなる。


「あ、それで、セイカさんにお土産があるんです」
「お土産?」
「はい。これ」


そう言って差し出されたのは、小さくまとめられた花束だった。純白の花弁が可愛らしく揺れている。切り口は綺麗に切りそろえられ、レースで丁寧に結ばれている。どうしたのかとテネオを見ると、彼は嬉しそうに顔を綻ばせた。その顔には、まだ子供らしさが残っている。


「村で、結婚式がやってたんです」
「結婚式………」


そう言われれば、今手にしている花束も、控えめに見ればブーケと見れないこともない。甘く、かといってしつこくはなく上品な香りが風に乗って匂い、張りつめていた精神が少しばかり和らぐ。自分でも思ったより気を張っていたのかもしれない、とセイカは書類を抱えなおしながら内心苦笑した。村で育てた花だろうか。そう考えると、自分の手の中にある花の力強さを感じるようでもあった。珍しそうにそれを見ていたセイカだったが、ふと、彼の手にもう一つ花束があるのを見つける。


「テネオ君、そっちは?」
「えっ、あ、いや、これは………」


覗き込むと、ブーケとは別にもう一つ、テネオは深い紫色の花弁が華やかな花束を持っていた。何気なく指摘したセイカだったが、テネオはみるみる内に顔を赤くすると、どもりながら挙動不審になり始める。その態度に心当たりがあったのか、セイカは自分のブーケとテネオの花束を見比べて、ああ、と頷いた。


「それ、セリンサに?」
「………はい」


言い当てられたことに、赤くなっていた頬を更に熟れさせる。テネオの手にあるのは紫のチューリップ。花言葉は「永遠の愛」。セイカに贈られたのは白いダリア。花言葉は「感謝」。ようやく想いを伝えることになるのかと、セイカはそれをからかうでも探るでもなく、微笑みながら頷いた。


「そっか。きっと喜んでくれるよ」
「だといいんですけど………」
「ほらほら、牡牛座(タウラス)の黄金聖闘士が何を弱気なことを言ってるの!」


励ましの意味も込めて、ばしばしと肩を叩く。テネオの背はとっくにセイカを追い越していて、改めて過ぎた年月を思い出させた。その度に針のように細い寂寞が心に突き刺さるが、セイカはその痛みに俯くことはなく、無心に前に進もうとする。そうでもしないと、テンマから「うじうじすんな!」と引っ叩かれそうだ。


「報告は明日でもいいから、早く行ってきなさい」
――――が、頑張ってきます」
「頑張れ、少年」


ぽん、とテネオの背中を押し出して、セイカは陽の光を浴びながら遠ざかっていく背中を見つめる。昔は、自分が他人の背中を後押しするという考えなど、想像がつくどころか存在さえしなかった。周りにいる人間はすべて彼女を傷つけるために存在し、彼女は彼らに傷つけられるために存在する。彼らの傷を代行することが当たり前だと思っているセイカにとって、他人に手を伸ばすという行為は未知のものだった。それが今、こんなにも容易くセイカの中に息づいている。アローンが与えてくれたものが、今でも自分の中で生きている。その沁みる喜びを噛みしめながら、セイカは手の中の花束を見た。


「………あ、どうせならシオンにも見せてあげよう」


教皇の執務室はどうにも殺風景でいけない。そっけないとも言えるだろうか。空気が鋭いのだ。花を飾れば、幾分か華やかになるし、この花も自分一人よりも、他の人間達に見て貰えた方が嬉しいだろう。ああ、こんな考え方だって、昔ならできなかった。セイカは書類を抱え直し、外の回廊をぐるりと回ると執務室の扉を開ける。聞こえるのは文字を綴る音だけであり、扉を開けただけでしゃんと背筋が伸びるような緊張感が満ちていた。セイカも出来るだけトーンを落とした声で部屋の主を呼ぶ。


「シオン」
「………セイカか」
「お疲れ様。さっき、テネオ君に会ったよ。報告は明日にしてもらったけど、良かった?」
「ああ。今日は特に書類が多い気がする」
「書類じゃなくて、謁見が多かったんだよ」


それ一つ一つが少しずつ時間が押していた所為で、シオンは謁見の間と執務室を何度も行き来することになった。いくら元黄金聖闘士だったとはいえ、慣れない執務と謁見、見通しの立たない聖域の復興の重圧を一身に受けているのだ。体力があっても、精神的な疲れが必要以上に疲れを増長させるのだろう。そんなシオンを見て、セイカは何を思ったのか、ブーケの中から一輪取り出すとシオンの髪に飾る。シオンはそこでようやく書類から顔をあげて、セイカが髪に挿した一輪を手に取った。


「花?」
「さっきテネオ君から貰ったの」
「………そうか」


セイカの言葉にシオンは不満げに声を落とすが、セイカは花瓶探しに夢中になっているのか気付く様子はない。ようやく、部屋の隅に追いやられていた棚から花瓶を引き出すと、埃だらけの白磁を手で払って綺麗にする。一旦執務室から離れ、花瓶に水を入れて帰ってくれば、シオンは机の上に置かれた花束とにらめっこをしていた。というよりは、睨みつけていたという方がしっくりくるほどの眼光の鋭さではあったが。その睨みをセイカは花の種類を気にしているのかと見事に勘違いし、花瓶を机の上に置いて言った。


「シオン、その花の名前知ってる?」
「いや。………なんというんだ?」
「ダリアだよ。白いダリアの花言葉は感謝。だから、私からもシオンに感謝を」


そう言って、セイカは先程シオンの髪に挿した一輪を指差した。今はシオンの手のなかにあるそれを、シオンは驚いたように見て、ふと口元を緩めた。花を見て静かに微笑むその光景の様になること、セイカは思わず見惚れてしまいそうになる。シオンはその花を手遊びしていたが、ふとセイカが机へと運んできた花瓶に生けられたダリアを一輪抜き取ると、彼女へ差し出した。


「ならば、私からも感謝を」
「………ん、ありがとう。シオン」


セイカはおずおずとそれを受け取ろうとするが、するりとシオンがその手を追い越し、先程自分がされたように耳へとかけるように髪に挿す。艶やかな黒檀の髪に純白の花はよく映えた。


「よく似合っている」
「シオンも可愛かったよ」
「男が言われて嬉しい言葉ではないな」


ふわりと甘い匂いが空気を色付かせる。その日から、執務室の机の上によく可憐な花の姿が見られるようになった。




13'08'28
17'02'24 改訂