狛枝くんと対面する




狛枝くんと遭遇する後日談




あれはいつの頃だったろうか。今ではもう現実なのか夢だったのかさえ曖昧な記憶の中に、星歌はその姿を見つけた。印象に思い浮かぶのは、校舎の影を被って散らばった硝子の破片と彼の妙な饒舌さだった。神経を羽毛で逆撫でするような、不安を掻き立てるような声。そこでどういうやりとりをしたのか、星歌は覚えていない。その後、絶望の中で行われてたあの出来事がその凄惨さが過去まで塗り潰しているようだ。だが、それでも星歌はその顔を覚えていた。だからその写真を見た瞬間、直感したのだ。


――――この写真の男と苗木を会わせるわけにはいかない、と。


「やあ、こんにちは。久しぶりだね、飴凪さん」


透明な強化ガラスの向こうで笑う青年に、星歌は沈黙を守った。今目の前にいるのは、超高校級の絶望と呼ばれるうちの一人だ。この世界に絶望を突きつけて混乱に落とし込み、ひいては自分達があの学園の中でコロシアイをする原因を作った存在の仲間。しかし、それ以前に面識があることを星歌は覚えている。青年は押し黙ったままの星歌に柔らかく笑って首を傾げた。


「ああ、そっか。もしかして覚えてないのかな? もう一度自己紹介した方がいい?」
「いいえ、その必要はありません。………狛枝、先輩」


星歌の口から出た自分の名前に、青年――――狛枝はまるで未知の生物に会ったかのように大きく目を見開いて、滑稽なぐらい大袈裟に驚いた。そうしてゆっくりと立ち上がったかと思うと、強化ガラスの方へと近づいてくる。その目はじろじろと遠慮なく品定めする様に星歌を凝視している。ぶらりぶらりと不自然に揺れるその腕があの江ノ島盾子のものだということも星歌は知っていた。狛枝は強化ガラスに血の通っている方の手を添えると、それをそっと滑らせる。


「ああ、嬉しいな。覚えててくれたんだね。いや、思い出してくれたんだね、かな?」
「………知ってるんですね」
「もちろん。ずっと見てたからね。ずっと――――ね」


狛枝はうっとりと目を細めて、ガラス越しに星歌の輪郭を撫ぜる。それだけなのに、本当に触れられている気がして肌が粟立った。その嫌悪感を拳を握りしめ爪を食いこませることによって、表情に出ないようにする。向かい合い、星歌はあの時自分が会ったのは確かにこの男なのだ、と改めて認識した。狛枝は苗木と同じく『超高校級の幸運』として希望ヶ峰学園に入学してきている。狛枝に関する情報がまとめられた書類は今、星歌の左腕に抱えられている。それに目を通す限り、彼の人生はある意味幸運という名が相応しい、しかし、見る側面を変えればあまりにも不運なものだった。


「ボクとしては、苗木クンが来てくれると思っていたけど」
「ご期待に沿えず申し訳ない」
「まさか! 確かに苗木くんにも会いたかったけど、ボクはそれと同じくらいキミにも会いたかったんだ。飴凪さん。飴凪星歌さん。超高校級の人形師。あのコロシアイの中で一度も絶望に負けることのなかった、素晴らしい希望を持つ女の子。まさかこんなゴミ屑にも劣るボクのことを覚えていてくれただなんて、ああ、ボクみたいな人間を思い出すだなんてそれだけで気分が悪くなるだろうね」
「………変わりませんね、狛枝先輩」
「ボクをまだ先輩と呼んでくれるの? 優しいなあ、飴凪さんは」


別段その呼び名に特別な意味合いがあったわけではない。ただ、一度インプットされたその呼び名の方が自然に会話を進められるという、ただそれだけの理由だ。けれど、狛枝にとってはそうではないらしい。彼を先輩と呼ぶことを優しさという狛枝に、星歌は眉を顰めた。この男を前にすると、ざわざわと胸が落ち着かなくなる。そのざわつきに引き摺られた不安が、そのまま苗木を求める感情に繋がる。この世界でたった一人、星歌の心を冷やす影を払うことのできる、愛しいひと。そんな彼と同じ肩書きを持つ男を前にして、星歌はゆっくりと言葉を選ぶ。


「………貴方と苗木を、会わせない方がいいと思ったので」


唐突に出てきた苗木の名前に、狛枝はガラスをなぞっていた動きを止めて星歌を見た。彼と苗木を会わせない方がいい。どうしてそう思ったのか、星歌にも分からない。超高校級の幸運同士。けれど、片や希望を冠し、片や絶望を担う。狛枝の言う通り、最初は苗木が狛枝に会いに来る予定だったのだ。そして、星歌はそれを横から割って入って半ば無理やり代わってもらった。霧切に知り合いなのかと問われたが、星歌は首を横に振った。確かに面識はあるが、交わした言葉は両手で数える程度のもので、出会ったのはあれきりだった。


「そういえば、飴凪さんは苗木クンと友達だったよね?」
「………」
「懐かしいなぁ。ボクは今でも思い出せるよ。飴凪さんと初めて会ったあの日のこと」


楽しげに話しながら、狛枝はガラスをなぞるのを止めた指で、今度はこつこつと自分と星歌を分け隔てる透明な壁を叩き始める。その音が一つ増える度に、狛枝の言う『あの日』の記憶が徐々に色を取り戻していくようにも感じられた。あの頃から、すでに狛枝は絶望に囚われていたのだろうか。


「あの後、結局苗木クンには会えずじまいだったけど――――今は、それで良かったと思ってるんだ」
「………理由を、訊いても?」
「キミに会えたからね」


さらりと出てきた言葉は、こんな状況で、相手が狛枝でなければ口説き文句の一つにでも聞こえていただろう。狛枝はこつこつと指先でガラスの仕切りを叩く。壁の存在に対する不満を表しているのか、その仕草には微かな苛立ちが感じられた。星歌は視線を落として、その音を聞く。


「苗木クンに会えなかったのは確かに不運なことだったけど、それを補うだけの幸運がボクの元に転がり込んできた。ボクの幸運はね、常に不運とセットなんだ。不幸なことが起きれば起きるほど、それを補って余りある幸運が舞い込んでくる」
「あの日の不運に対する幸運が、私に出会ったことだと?」
「うん。まあ、キミとの出会いを幸運だと思えるようになったのは、あれからもう少し後のことなんだけどね」
「………?」


どういうことだろうか。だが、これ以上質問を重ねても無益な答えしか返ってこないと判断した星歌は、その真意を問うことはしなかった。そして不意に――――本当に唐突に、無性に苗木に会いたくなった。それと同時に、やはり苗木と狛枝を会わせるわけにはいかないという予感が不吉の色を濃くして強くなる。遂に口を閉じてしまった星歌に狛枝は一つ微笑んで、いきなり握った拳を強化ガラスに叩きつけた。だん、と妙にくぐもった音は迫力に欠けたが、それでも透明な壁が震えるほどの殴打に星歌は驚いて顔をあげる。狛枝はようやく視線を合わせた星歌に満足げに口元を歪ませ、ある一点を指差した。


飴凪さん。ちょっと渡したいものがあるんだけど」


狛枝が指さしたのは、食事や物を受け渡しするために開閉が出来るようになっている箇所だった。この透明な区切りの中で、唯一外と内が繋がる場所である。星歌は訝しげに狛枝を見る。この部屋に入れられる時点で危険物の一切は取り上げられているはずだが、相手は超高校級の絶望だ。星歌の疑心に満ちた視線にも、狛枝は相好を崩さずにさっさと開閉扉の前へと行ってしまう。早く、と急かす声に星歌は逡巡して、狛枝の言い分に従うことにした。当たり前だが、これは外側、つまり星歌の側からしか開けられないようになっている。星歌は留め金を外して、狛枝を見た。


「で、渡したいものとは?」
「うん。これなんだけどね」


そう言って狛枝がポケットから取り出したのは、一枚のハンカチだった。淡い青色の模様も何もない無地のハンカチ。危険物ではなさそうだ、と星歌はそっと開閉扉に手を差し入れる。狛枝も膝をついて星歌にハンカチを手渡し、受け取った星歌はそのまま手を引っ込めようとするが、その前に狛枝の手が星歌を捕えた。伸びた爪は力の加減なく肌に食い込み、痛みに眉を顰めながら星歌は狛枝を睨む。「ああ、ごめんね」と心のこもっていないそっけない謝罪と共に星歌の掌はすぐに解放されたが、爪の食い込んだ痕に残る痛みが妙に気に障った。そして、受け取ったハンカチを広げてみて、星歌は目を見開く。


「これ………」
「キミのだよ、飴凪さん」


隅に刺繍された自分の名前に、星歌は思い出す。あの日、怪我をした狛枝に半ば無理やりにハンカチを押し付けたのは自分だった。もしかして、あれからずっと彼はこのハンカチを持っていたのだろうか。返してくれたことには礼を言うべきなのだろう、と星歌は狛枝と視線を絡ませた。狛枝が星歌を見る目は不安定な熱を孕んでいて、星歌は落ち着かなくなる。


「有難うございます」
「………ふふ」
「? なんですか」
「あの日もキミはそうやって、ボクみたいな生きていたって酸素の無駄遣いにしかしないようなどうしようもない男に生真面目な顔でお礼を言っていたよ」
「………そうですか」


星歌はそれだけ言って、ハンカチをそのままポケットに捻じ込み、その場を後にしようとする。ただ、向けた背に掛けられた狛枝の声に一度足を止めそうになって、初めて自分を苗字でなく名前で呼んだその声に「………また、会いに来ます」と言ってしまったその理由を、星歌は自分のことだというのに終ぞ理解することが出来なかった。