狛枝くんに遭遇する







どうしてこんな状況になっているのだろう、と心当たりを探ってみても、星歌にはまったく思い当たる節がなかった。あるとすれば、今日の星座占いが最下位だったことぐらいだろうか。だけど、たったそれだけで硝子の雨が降ってくるなんてことは普通考えられない。自分と同じ星座の人間がこの世界に何人いると思っているんだ、と星歌は誰ともなく反論しながら、目の前の人物を見た。


「ありがとう。えっと――――
飴凪です。飴凪星歌
飴凪………? ああ、今年入学した『超高校級の人形師』の飴凪星歌さんだね!」
「知ってるんですか?」
「当たり前だよ。輝かしい希望であるこの希望ヶ峰学園の生徒の情報を、僕が疎かにするなんて考えられないからね」
「………? そうですか」
「ああ、ボクみたいな下らない最底辺の人間の名前なんて知りたくもないだろうけど、一応名乗っておくね。ボクは狛枝凪斗って言うんだ」


なんだか妙に自虐が激しい人だ、というのが星歌の彼に対する――――狛枝凪斗に対する第一印象だった。見た感じでは、おそらく上級生だろう。自分達の学年にはいなかった顔だ。希望ヶ峰学園は一学年がニクラスなので、名前はともかく、どんな顔がいるのかは覚えやすい。星歌はこまえだなぎと、と頭の中で彼の名前を復唱し、視線を下に落とした。


「保健室に行った方がいいですね。付き添いましょうか?」
「え? そんな、いいよ。ボクの怪我なんかの為に飴凪さんに徒労をかけるわけにもいかないしね」
「だけど、これじゃあ歩くのはきつくありませんか?」


星歌は周りの惨状を見て、もう一度狛枝の足へと目を落とした。空から降ってきた破片は偶然なのか故意なのかは分からないが、故意だったとしたらあまりにも悪質だろう。回想は、星歌が校舎の外を歩いているとき、狛枝が向こうから歩いてきたところから始まる。一度はそのまま目も合わせずすれ違ったのだが、けたたましい音が聞こえたのと同時に後ろから急に体を押された。転ぶのはなんとか免れたが、慌てて振り返ってみると、そこには四散した硝子の破片と蹲っている狛枝がいた。上を見ると、どうやら四階のガラス窓が割れたらしい。その破片がそのまま降り注いできたのだと理解したときには、背筋が寒くなった。


「そんなに深くないし、大丈夫だよ」
「だけど――――


自分の立ち位置からして、破片が届くかは微妙だった。けれど、狛枝が星歌を庇うのではなくもう一歩前に進んでいれば、こんな怪我をしなくて良かったかもしれないと考えれば、罪悪感とまではいかずとも決まりの悪さぐらいは感じた。と、狛枝は星歌の薄い表情から何を読み取ったのか、朗らかに答える。


飴凪さんの所為じゃないよ。というか、この場合はむしろ君がボクの不運に巻き込まれてしまった形になるから、ボクこそが謝るべきなんだけど」
「え?」
「ごめんね、飴凪さん。ボクみたいな低俗な人間が君を傷つけてしまいそうになったなんて、どうすればお詫び出来るかな? あ、あそこにある硝子の破片の上を裸足でジャンプしてこようか?」
「いえ、そういうのはいいです」


いきなり何を言いだすんだこの人は。星歌は理解不能な狛枝の言い分もとりあえず、彼を破片から遠ざけて近くの木陰に座らせる。ズボンは降り注いだ破片によってすっぱりと切り裂かれ、細い血の筋が滑らかな曲線を描いて靴下を赤く染めていた。白い肌の所為だろうか、それに一瞬でも美しさを感じた星歌は、それをすぐに振り払ってハンカチを取り出した。


「あの、これ良ければ使って下さい」
「ボクみたいな奴の血で飴凪さんのハンカチを汚すなんて出来ないよ」


困ったように笑った狛枝に、星歌はむっと表情を顰めた。狛枝の過剰な卑下が癇に障った。もしかしたら、それが一瞬だけ自分のクラスメイトと被ったからかもしれない。もちろん、彼はこんなあからさまで一歩間違えば嫌味のように聞こえる卑下などしない。自虐と謙遜は違うのだ。だからこそ星歌は、それ以上何も言わず、無言でハンカチを傷口に押し当てた。「あ」と狛枝の声が聞こえるが、聞こえないふりをする。


「しばらく押さえておいてください。そうすれば、止まると思いますから」
「ありがとう。さすが希望の象徴である超高校級の才能の持ち主だね。下劣で何の役にも立たないボクにこんなに優しくしてくれるなんて!」
「優しさに才能は関係ないでしょう」
「そうかな? 他人に優しく出来るのは余裕がないと出来ないことだよ。他人に引け目を感じてないから手を差し伸べられる。そういうものなんじゃない?」
「………狛枝先輩は、難しく考えすぎだと思いますけど」


特に肯定も否定もせず、星歌は狛枝の理論を流した。星歌はあまり表情が豊かな方ではない。同じクラスの霧切と並べられてクールビューティーなどと評されるが、霧切は態度だけでなく内面も冷静なのに対し、星歌は激情家だ。それを知る者は少ないが、ただ星歌は感情を表に出さないのであって、頭の内側はクールでもビューティーでもない。それが小さいころから人形を相手にしてきたからなのかは分からないが、星歌は他人の感情面を至極単純に捉えていた。そうしたいからそうする。そこにある理由や後付けにはあまり拘らないのが星歌だった。


――――狛枝先輩は、一年に何か用が?」


なんとなく流れが悪くなった会話を切り替えようとして出た話題は、今星歌と狛枝がいる校舎の話だった。ここにあるのは一年の教室で、他学年が足を運ぶことはあまりない。狛枝は星歌の言う通りハンカチで傷口を押さえたまま答えた。


「うん。ちょっと会いたい人がいてね」
「会いたい人?」
「苗木くん、って言うんだけど。確か今年の『超高校級の幸運』だったよね?」
「そうですけど………。今日は来てません」
「そうなの?」
「はい。風邪で休んでます」


星歌は教室で一つぽつんと空いた席を思い出す。5月の半ばに風邪とは、中途半端だなと思いながら、もしかしたら学校に慣れて緊張が緩んだところを狙われてしまったのかもしれない、と星歌はぼんやりと思った。席が近いこともあって何度か話してみたが、子犬みたいな可愛らしさと健気な前向きさが印象的な子だ。狛枝は苗木の不在を知ると、しゅんと項垂れてしまう。


「そっか。運が悪かったみたいだね。ああ、でもこの不運を上回る幸運が待ち受けていると思えば、今から楽しみで胸の高鳴りが抑えきれないよ………!」
――――幸運?」


色々と気になるところはあったが、星歌は引っかかった単語だけを抽出して問い返した。幸運。それは、今しがた話題に出た苗木を連想させるキーワードだった。苗木は狛枝が言っていたように、今年の『超高校級の幸運』としてこの希望ヶ峰学園に入学してきた。星歌の問いに、狛枝が答える。


「うん。ボクも『超高校級の幸運』の持ち主なんだ。そうはいっても、飴凪さんのように立派な才能でなければ誇れるものでもない。クズみたいな何の役にも立たないガラクタ同然の才能だよ」
「………そういうの、やめてくれませんか。苗木くんのことまで馬鹿にされてるみたいです」


言って、星歌はどうして自分はここまでムキになっているんだろう、と我に返る。初対面の、更に先輩に生意気な口を聞いてしまったことに謝罪を述べようとすると、星歌の言葉に驚いていた狛枝が申し訳なさそうに笑った。


「ごめんね。そういうつもりじゃなかったんだけど」
「………いえ。私も言いすぎました。すみません」
飴凪さんって、見た目に似合わず友達思いなんだね」
「そういうわけじゃ………」


そこでまた会話が途切れる。何か話した方がいいのだろうか、と星歌が思い悩んでいると、助け舟を出すように昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。しまった、次は移動教室だったと星歌は立ち上がり、ちらりと狛枝を見る。このままここに放っておいてもいいのだろうか、と星歌がその場からなかなか立ち去れずにいると、狛枝が言葉で星歌の背中を押す。


「ボクは平気だから、行っていいよ。もう血も止まったしね」
「ちゃんと保健室、行ってくださいよ。――――あと、さっきは庇ってくれて、ありがとうございました」


ぺこりと頭を下げて、星歌は踵を返す。だから最後、小さく狛枝が自分の名前を呟いたのも、どんな表情をしていたのかも知ることもなかった。彼が後に希望と呼ばれる少年に会えなかったのは、幸運なのか不運なのか。彼女が後に絶望と呼ばれる彼に会ってしまったのは、幸運なのか不運なのか。その幸運と不運は、誰にも知られることなく、路傍へと転がされていった。