苗木くんを信じる






「励ましてくれる苗木くん」の続き



まだ耳の奥がきいんと痺れているようだ。その麻痺した音の中に時折、ボールが人の肉を打つ音が混じってくる。一度目の学級裁判が終わった。舞園さやかが殺され、犯人は桑田礼恩だった。言葉にしてみれば、なんて短い結論だろう。この言葉の中で、どれだけの人間の絶望が込められているのか。これが最初で最後の学級裁判であるように祈りながらも、しかし、この学級裁判はやはり『一度目』と数えることになるのだろうと星歌は思っていた。二度目、三度目。何度繰り返せば終わるのだろうか。


「………」


星歌は扉の前で、ノックをしようとしたままその動きを止めていた。扉にかかっているプレートには『苗木』の名前があり、最初の殺人現場となった部屋である。星歌はすう、と息を吸うと、軽く扉をノックした。だが、返事はない。もしかしたら眠っているのだろうかと踵を返し、自分の部屋に戻ろうとしたとき、かちゃりと扉の開く音がした。


「………飴凪さん?」
「………やあ、苗木くん。少し、お邪魔してもいいかな?」


言えば、苗木は憔悴しきった顔に弱々しい笑みを浮かべて、扉を開けてくれた。星歌はお邪魔します、と声を出して部屋に踏み込む。あれだけ荒らされていた部屋は、まるで事件などなかったかのように元通りになっていた。壁に刻まれた抵抗の跡も何もない。おそらく、舞園の死体もすでに回収されているのだろう。ちらり、とドアノブも元通りになっているシャワールームを見遣る。動かなくなった舞園に触れたときの温度が蘇って、星歌はすぐにそちらを見ることを止めた。


「お疲れ様、苗木くん」
「………うん。飴凪さんも」


ベッドに腰掛けた苗木の正面に立ちながら、星歌はどうしようかと眉を寄せた。こんなとき、上手く励ましの言葉が出てこない自分が恨めしい。舞園の死に一番ショックを受けていたのは苗木で、彼女が苗木をスケープゴートに使おうとしていたことを知ったことからも考えて、この学級裁判で一番苦しかったのは、誰でもない苗木なのだ。それに比べれば、自分などまだ生温い。


「………すまない、苗木くん」
「どうして飴凪さんが謝るの?」
「いや、こういうとき、どんなことを言えばいいのか分からなくて………。励まそうかと、そう思って来たんだけど………。上手く、言葉が見つからないんだ」


自分が人を元気づけたり励ましたりするのが苦手なのは、重々承知していた。元より陽気さとはかけ離れた性格で、自己表現が苦手な星歌にとって、この極限状態で人を上手に励ますなど出来るはずがない。それでも、星歌は何かしたいと思った。舞園の死体を調べたあと、苗木が自分を励ましてくれたように、今度は自分が彼を励ましてあげたいと。大丈夫と、そう言ってもらえるだけで自分がどれほど勇気づけられたか。心を折らずに済んだか。だから星歌も、叶うのならば苗木に一つでもいい、何か支えになるものを与えたいとそう思った。けれど、やはり現実は上手くいかない。


――――苗木くん」


星歌はベッドに座って俯く彼の名前を呼んで、彼の前に膝をつく。隠れた彼の顔を覗き込むようにして、膝の上で握りしめられている彼の手にそっと自分の手を添えた。温かい、生きた人間の感触。それが触れた舞園の死体の冷たさを打ち消して、ああ、また彼には助けられてしまったな、と星歌は内心で苦笑した。


「苗木くん、今こんなこと言われても、信じられないかもしれない。けれど――――私は、キミの味方だよ」


その言葉の重みを伝えるように、星歌は苗木に添えた手の力を強くする。舞園がどんな気持ちで苗木を利用しようとしていたのかは分からない。最後まで迷っていたのか、それとも決意していたのか。彼女が死んでしまった以上、それは分からない。だけど、苗木には信じて欲しいと思った。自分が苗木を味方だと信じたように、彼にも自分を信じて欲しいと。


「私は、キミを裏切らないから。だから、信じて欲しい」


ともすれば言い淀んでしまいそうな台詞を、星歌は一息で言い切った。どうか、お願いだから信じてくれと、星歌は祈るように、縋るように苗木の手を握る。他の誰もが信じてくれなくても、苗木には信じていて欲しかった。どうしてかは分からない。どうして、悲しむ彼を見てこんなにも苦しくなるのかも、彼にだけは見捨てられたくないと思うのかも。そして、例え――――有り得ないけれど――――もし彼が自分を裏切ったとしても、きっと自分は苗木を恨まないだろう。そんな不思議な確信が、星歌にはあった。出会ったばかりのはずなのに、まるで彼の為人をすべて把握しているような、そんな安心感があった。


「………大丈夫だから。私も、苗木くんを守るから」
――――飴凪さん」


かつて自分の言われた言葉を、苗木に返す。真綿に包み、ありったけの感謝と信頼を込めて。苗木はゆるゆると顔をあげて、添えられた星歌の手をぎゅ、と握りしめた。


「ありがとう、飴凪さん。ボク、飴凪さんを信じるよ」
「お礼を言うのはこちらの方だよ。………信じてくれて、ありがとう」


こんなときでも他人を信じられる苗木の強さを、星歌は純粋に尊敬した。星歌を見つめる苗木の目には、決して失われない光があった。希望の光だ、と星歌はそんな言葉を思い浮かべた自分に笑む。そうだ、彼は希望だ。他の誰でもない。星歌にとっての希望はまさに、目の前にいる彼なのだと。


「………なんだか、不思議な感じだね」
「なにが?」
「上手く言えないんだけど………。飴凪さんは絶対にボクを裏切らないって、そう思えるんだ」


照れくさそうに言った苗木に、星歌は目を見開いた。それはまさに、自分も抱いていた確信だったから。苗木は自分を裏切ることなどないだろうと、図々しいまでの信頼。苗木もまた、自分にそれを感じているのだと知って、星歌は泣きたくなるような、思い切り抱きしめたいような衝動に駆られた。ああ、本当に彼は。


「………キミは、私の希望だよ」
「え?」
「いや、なんでもないんだ」


互いに握りしめた手に、星歌は頬を緩める。大丈夫、これから何があろうとも、自分は苗木を信じ続けられる。苗木がいれば、どんな絶望にだって耐えていける。星歌は耳を澄ませる。もう、あの耳鳴りは聞こえなくなっていた。