狛枝くんを泣かせる






常々思っていた。どうして彼は泣かないのだろう。


「………えっと、飴凪さん?」
「なに?」
「いや………。さっきからずっと見てるから、何か用事でもあるのかなって」


目の前で困ったように笑う狛枝くんに、私は少しばかり傾いていた首の角度を修正した。いつの間にか考えに没頭して彼を凝視してしまっていたらしい。狛枝くんの前には開かれた本が一つ。私の前にも一つ。図書館は本の保存を考えて窓は天井近くに光を取り入れる為に付けられたもの以外は少なく、風通りがいい。だからテーブルや大理石の床はひんやりとしていて、この島の施設の中でも私のお気に入りとなっていた。だが、この頃は本を読む為ではなく狛枝くんに会うために来ているといっても過言ではない。そして、足繁く通い、目下の目的は。


(狛枝くんを泣かせたい)


そんな物騒な思考が止まらないわけだが、別に私は特殊な性癖を持ち合わせているわけではない。好きな男性の泣き顔を見てにやににやするようなサディスティックな世界には生憎縁はない。しかし、彼が泣くようなこととはなんだろうか。狛枝くんは、彼曰く『希望』である超高校級の面々(それは私も含まれる)に何をされても平気だという。むしろ光栄だと表情を輝かせて言うだろう。つまり、私がどんなに殴っても詰っても蔑んでも彼は泣かないだろう。ああ、この島に来る以前の私は予測していただろうか。私が人を泣かせる方法に頭を悩ませ、誰かを泣かせたいと本気で思う日が来るなんて。どうしてこんなことを考えるのか、私には分からない。ただ、彼は泣いた方がいいと思ったのだ。そして、彼は自分から泣くようなことはしないだろうから、誰かが泣かせてあげないと泣けないのだと。普通の人から見れば、まるで破綻した考えを、私は当たり前のように狛枝くんに当てはめてしまっている。この島の慣れない状況に頭が可笑しくなったのかもしれない。だけど、彼の笑顔を見ていると強くそう思うのだ。彼の笑みは笑顔というより、まるで、泣き方を忘れてしまったような。


飴凪さん?」
「………ああ、うん」
「眠いの?」
「いや、眠くはない。ただ、この頃ちょっと考え事をしてて」
「え? それってもしかして、」
「生憎と殺し合いのことではないんだけど」


先制攻撃を受ける前に、私は釘を刺しておく。狛枝くんは俄かに輝かせた表情をがっかりした顔にして引き下がる。あれ、と私はその引きの良さに少しばかり驚いた。いつもなら、もっとねちねち色々と誘ってくるはずなのに。そういえば、狛枝くんもページの進みが遅く、時々上の空というように頬杖をついてテーブルの上に視線を落としていた。彼もまた、何か考え事を抱えているらしい。物騒なことを企んでなければいいけど。狛枝くんはそんな私を見て、にっこりと笑った。


「あはは、余裕なんだね飴凪さん。もしかして、自分には関係ないって思ってる?」
「まさか。現実逃避してるつもりはないよ」
「ふうん? 飴凪さんの悩み事って、この島で起こってるコロシアイよりも重要なことなの?」
「重要だね。それが気にかかって、夜も眠れないくらいに」


そして、睡眠時間を削ってもこの問題はまだ解決できていない。狛枝くんを泣かせる方法。考えれば考えるほど、無理難題に思えてきた。なにせ、相手はあの狛枝くんなのだ。ここまで煮詰まってしまっては仕方ない。私は一度気分を入れ替えるべく、途中まで読んでいた本を閉じて、本棚へと向かう。たまには読んだことのないジャンルを読んでみようかと本棚を見上げながら、ゆっくりと歩く。私が見上げる本棚には童話系の本。有名な不思議の国のアリスから、作者も題名も知らない見知らぬ本まである。私は脚立を持ってくると、足を掛けて目についた本を一冊手に取る。薄い幼児向けの本には、淡い水彩の絵と共に物語が綴られていた。私は脚立の天板に座ると、そっと本を開く。人形と魔女の物語。ロボットと科学者の物語。世界に残された最後の女の子の物語。じっくりと、最後まで読んではまた最初のページを開いて、繰り返し物語の世界をループさせる。


――――飴凪さん、もう夕方だよ」


小さな声で呼び戻されて、私は本から顔をあげた。天窓から差し込んでくる光は赤く、影は長くなっている。どうやら私は随分と物語の世界にのめり込んでいるらしい。少し視線を落とすと、こちらを見上げている狛枝くんと目が合った。上から見下ろした彼は、新鮮だった。そうしてふと―――どうして自分でもそうしようと思ったのか―――きっと、さっき読んだ本に書かれていたあの台詞の所為だ――――私は彼の頭を撫でてみた。


――――


むず痒い。人の頭を撫でるなんて、滅多にやることではないから、やってる方も落ち着かない。そっと、狛枝くんのくせっ毛に指を通す。ふわふわとしている見た目の割に、引っ掛かり一つなく指は毛先までするりと抜ける。指の間を髪がすり抜けていく感触がくすぐったい。無言で頭を撫でる。別に感謝や慈愛を込めたわけではない。なんとなく、やってみたいと思っただけだった。だから、狛枝くんがそのとき見せた表情の意味を、私は最初分からなかった。


――――狛枝くん?」
「え? あ、あれ? ………なに、これ」


呆然としたように狛枝くんが自分の頬を触っている。唇は必死に笑おうとしているのだが、上手くいかず歪な曲線を描いて、より表情を悲痛なものにしていた。私は慌てて頭を撫でるのを止めて、脚立を降りる。だが、相も変わらず狛枝くんは頬を流れた涙が床へ落ちていくのを、呆気にとられたまま見ているだけだった。むしろ、呆気にとられたいのはこっちだというのに。リアクションを先に取られてしまうと、こっちはどう反応していいものか。だけど、なんとなく、私はその狛枝くんの泣き顔が嬉しかった。泣いてくれることが、まだ彼に涙を流す心があることが無性に嬉しくて、私は狛枝くんの頭を抱えて私の肩に彼の額を押し付けた。そうしてまた、頭を撫でる。


「よしよし」
「………あのさ、飴凪さん。馬鹿にしてない?」
「してないしてない」


言いながら、私の口元を緩みきってしまっていた。静かに、声もなく、泣く理由さえ見つけられず涙を流す狛枝くん。なんてかわいそうな子なんだろう。そして、その不器用さが、歪さが、言い様も無いずれが私にはとても愛おしく感じられた。なんだ、こんなことで良かったのか、と私はあまりにもあっさりとした解決に笑いたくなった。本当に、可愛くてかわいくて、そのまま泣いて枯れてしまえばいいのにとさえ思ってしまう。彼を泣かせる方法は手に入れた。さあ、今度は彼を泣き止ませる方法を考えよう。