苗木くんの帰りを待つ







そっと硝子の蓋に手を這わせると、じんわりとした温かさが掌に伝わってきた。そっと息を殺して、ぎりぎりまで顔を寄せて覗き込む。相変わらず彼の寝顔は幼くて、プログラムにダイブするための装置に横たわっている彼はまるで童話に出てくる白雪姫のようだった。言ったらきっと、彼は怒るだろうけど。


『もうすぐ目が覚めると思うよ』
「ありがとう、アルターエゴ」
『うん。でも、日向くん達はもう少しかかると思うんだ』
「………そう」


強制シャットダウンを行う為、苗木くんと十神くん、霧切さんは江ノ島アルターエゴに乗っ取られた新世界プログラムへと力技で侵入した。モニターの向こうでは砂嵐が走っている。すでにプログラムは強制シャットダウンされていて、そろそろ彼らの意識も戻ってくるはずだ。


「まったく………苗木くんは変なところで強引なんだから」
『最初に一人で行っちゃったときは、本当にびっくりしたよ』


画面越しにアルターエゴの苦笑を見て、私もそれに追従する。本当に心臓に悪い。やっと開いた一人分の意識を転送する隙間に、苗木くんは躊躇なく飛び込んだ。強制シャットダウンに必要な人数が揃うまで、なんとか日向くん達を説得して時間を稼ごうとしていたらしいが、今日ほどモニターの境をもどかしく思ったことはない。今はこの透明な蓋が一秒でも早く開くことを祈りながら、機械の駆動音に耳を澄ます。と、苗木くんの薄い瞼が跳ねて、ゆっくりと開かれる。最初はぼんやりと宙空を彷徨っていた視線が、私にぴたりと定まると微笑の形を取った。私も緊張から口元を緩めて、蓋にやっていた手をどける。そうすれば、意識の目覚めを読み取った装置が蓋を開き、私と苗木くんを遮るものをなくしてくれる。


「おはよう、苗木くん」
「うん………おはよう、星歌さん」
「お疲れ様」
「あはは、ありがとう………。なんだかちょっと、身体がだるいかな」


ほんのちょっとだけだったのにね、と困ったように笑う苗木くんに、私も装置の縁に腰掛けて笑う。そして、そのままの笑顔で苗木くんにチョップをかました。頭の上で揺れている触覚を両断するようにしてチョップをお見舞い。苗木くんは「痛いよ、星歌さん」とチョップを入れられた場所を押さえてこちらを見てきた。高低差から必然的に上目遣いになって、ちょっときゅんとなる。本当はもっと色々言ってやりたかったが、控えめに浮かべられた笑顔にもうどうでも良くなってしまう。とにかく、彼が戻ってきてくれたそれだけでいいなんて妥協してしまう。苗木くん恐るべし。


「ごめんね、星歌さん。心配かけちゃって」
「悪いと思ってないくせに」
「そ、そんなことないよ。だけど、あの時は仕方なくて………」
「いいよ、別に。私は苗木くんのそういうところ、嫌いじゃないから」
――――うん、ありがとう。星歌さん」
「それに、私が怒らなくても、あとから十神くんと霧切さんがたっぷりお小言を言ってくれるはずだからね」
「う………」
「心の準備、しておいた方がいいよ」


今から二人に詰め寄られて小さくなる苗木くんがありありと想像できる。苗木くんも自分がしどろもどろになっている姿が想像できるのか、今から冷や汗を流していた。私はそんな苗木くんに小さく笑みを漏らして、手を差し出した。苗木くんもきょとんとしたあと、私の手を取ってくれる。


「行こうか、苗木くん」
「うん。………あの、星歌さん」
「なに?」
「ありがとう」


ふわりと解けるような微笑みを浮かべる苗木くん。きっと、最終的にはこの笑顔であの二人も黙らせるんだろうな、さすが超高校級の希望――――なんて、彼を好きになったときからその笑顔に絆され続けている私には言う資格なんて無いにも等しかった。