狛枝くんは夢見が悪い







ぞくりとした悪寒で目が覚めた。じっとりと気持ち悪いぐらいに汗をかいているのに、肌は冷たく身体は震えている。上半身を起こすと、額に前髪が張り付いてこれもまた気持ち悪かった。乱れた呼吸を整えて、じわりじわりと身体の奥を蝕む影が去るのを待つ。悪夢だった。悍ましい、耐えがたい、絶望的な夢だった。けれど具体的にどんな夢だったのか、その内容は目を覚ました瞬間すっかり思い出せなくなっている。始末の悪い夢だ、と心の中で毒気ついた。どんな夢だったのか分からないから、どんな風に恐怖を打ち払えばいいのかも分からない。ただ最悪の後味の悪さだけを飄々と残していって、悪夢は去った。


「………」


独り言を言う気力もなかった。とにかく、今は眠る気にもなれない。どんな夢だったかは覚えていないが、万が一すぐに寝て続きが再開されてしまったら、今度こそ自分の絶叫が目覚ましになることが分かっていた。ふらふらと覚束ない足取りでコテージの外に出ると、ふとホテルのレストランに明かりがついているのが見えた。誰かいるのだろうか。こんな時間に? ボクは何も考えずに、誘蛾灯に惹かれる羽虫のようにレストランへと向かう。扉を開けて、その明るさに眠気が削ぎ落とされていった。一瞬暗さに慣れていた目は明るさで世界を見失って、けれどすぐに順応した。まだ何も並んでいないテーブルの上、一番奥の、窓際のテーブルに飴凪さんが座っている。飴凪さんもこちらに気付いたのか、「やあ」と手をあげてきた。


「おはよう、狛枝くん。とはいっても、まだ夜明け前だけど」
「………飴凪さんこそ、どうしてこんな朝早く?」
「ちょっと眠れなかったから、ホットミルクでも飲もうと思って。キミもいる?」


言いながら、飴凪さんはボクが答える前に厨房に引っ込んでしまった。飴凪さんがいなくなった後にはぽつんとマグカップが一つ残されていて、中身は減っていないのにすっかり冷えてしまっている。ボクは彼女の向かい側に腰を下ろして、そう待たないうちにボクの前に温かなホットミルクが置かれた。飴凪さんは相変わらず曖昧な笑みを浮かべてボクの前に座る。そして、ボクと目を合わせるとその笑みを深くして「召し上がれ」と言ってきた。その笑顔に、胸のなかに蟠っていた瘧が溶けはじめる。不思議だ。彼女の笑顔は満面の笑みというわけでも慈悲深いというわけでもないのに、温かな真綿に包まれていくような心地よさを感じる。そっとマグカップを持って一口飲む。程よい温度だった。飴凪さんもとっくに冷えてしまっているホットミルクにようやく口をつける。


飴凪さん、それ、冷えてるよ」
「考え事してたらね。もう一度温めるのも面倒だから」
「そっか」
「………」
「………」
「私で良かったら、話相手になるよ」


飴凪さんが頬杖をついて、こちらを見てくる。ボクはどうすればいいのか分からず、頭も回らないから飴凪さんに言われるままに話した。とはいっても、内容も何も覚えてないから、ただ悪夢を見て目が覚めてまた眠るのが怖くなったと、たった一言で終わってしまったけど。飴凪さんはボクの話を何も言わず聞いてくれた。本当になんて優しい子なんだろう。どうしてこんな子が自分に構ってくるのか、甚だ不可思議だ。そうして、飴凪さんはボクにまたあのやんわりと輪郭の淡い笑みを浮かべた。なんだか急に落ち着かなくなって、視線を逸らす。


「何か私に出来ることはあるかな」
「そ、そんな、飴凪さんみたいな素晴らしい才能の持ち主が、ボク如きの為に手を煩わせるなんて」
「いいから。私が頼られたい気分なんだ。キミが希望の為になんでもできるというなら、今、私という希望の為に我儘を言いなさい」
――――手、を」


希望の為にボクの我儘が必要なんて、飴凪さんの理屈はとことん捻じ曲がっているような気がしてならなかったけど、気が付けばボクは唇を震わせて言っていた。浅い呼吸を何度か続けて、言葉を吐く。


「手を、握ってほしいんだ」
「手?」
「左手がさっきから、冷たくて。上手く動かせないんだ」


まるで自分のものじゃないみたいな左手を、無性に掻き毟って引きちぎりたい衝動に駆られる。ボクの言葉に、飴凪さんはすぐに反応した。がたりと大きく音を立てて椅子から立ち上がり、ボクの隣の席に座る。そして、テーブルの上に投げだされたボクの左手に、飴凪さんの右手が触れた。ぎゅ、と痛いほど握りしめられて、まるで心臓まで握られたかのように息が出来なくなった。自分で言っておきながら、すぐに手を解いてほしいような、ずっとここまで触れていてほしいような、もどかしい二律背反がボクを襲う。しかし、それも次の瞬間にはすべて吹っ飛ぶんだ。左手だけじゃない。背中と肩と胸にも感じる温かさ。他人の体温。飴凪さんに抱きしめられているんだと気付くまで、そう時間はいらなかった。


「え………」
「いいから。私がこうしたいんだ」
「で、でも」
「左手だけと言わず、全部温めてあげるよ。――――キミが怖くなくなるまで、ずっとこうしてるから」


背中に回った腕が強くボクを引き寄せる。椅子から身体を乗り出してボクを抱きしめる飴凪さんの顔は見えない。飴凪さんの体温がボクの肌に滲んでいく。ボクの冷たい手に触っているというのに、飴凪さんの手は温かいままだった。気が付けば、さっきまでボクの中にあった怯えがすっかりいなくなって、夢のことさえどうでもよくなっていた。誰もいない、まるで世界に二人しかいないような静けさの中。ミルクが冷えてしまうころには、ボクの左手は飴凪さんと同じ温度になっていた。