狛枝くんにマニキュアを塗る




※絶望時代




――――嗚呼、気持ち悪い。


星歌はその様子を濁った瞳で見つめながら、しかし、その手は淡々と作業を続けていた。星歌の視線の先には、自分の左手をうっとりと見つめながらその手を引っ掻き続けている狛枝の姿があった。その表情だけ見れば、恋人の艶姿に陶酔しているかのように見え、手元だけ見れば、まるで親の仇を掻き毟るかのような憎しみが感じられた。だが、彼が今まさに爪を立てている腕は彼のものではなく『彼女』のものなので、その痛みが彼に伝わるようなことはない。神経など繋がっていない、ただくっつけただけの代物なのだから仕方ない。


「………どうしたの、星歌
「いや。ただ気持ち悪いと思って」


主語を抜いたのは、ただ単に彼の名前を発音するのが億劫だったからだ。それでも目の前の彼には星歌が何を言いたかったのか分かったようで、少し目を丸くした後、その指先一つさえ動かせない飾り物の左手を口元に添えてくすくすと笑った。だらりと垂れさがった手首はまるで柳の下にいる幽霊を彷彿とさせる。血の通っていない青白い腕は、血が通っているのに同じく青白い狛枝にはあまり映えなかった。むしろ、血の気の失せた爪に塗られた毒々しい赤のマニキュアがより強く目を引いた。だがそれも剥がれかけていて、みすぼらしいという印象を星歌に与える。どことなく艶も失せて、完全な死に体となっている腕を狛枝は撫でる。


「そういう星歌だって、十分気持ち悪いことしてるよ」
「私が?」
「だって、死んだ人間の足を切り取ってそんなに撫でまわしてさあ」


嘲笑するように言った狛枝に、星歌は眉を顰めて腕の中にあるものをぎゅうと抱きしめた。それはまさしく人間の足だ。マネキンでもロボットでもない。血と肉と骨で構成されている正真正銘生身の人間の足だ。それは太腿の付け根からばっさりと切り落とされており、鋸か何か切れ味の悪いもので切断したからか、ぶらん、と筋と神経が糸のように垂れていた。それはまさに採りたての『資料』で、まだ血の温かさも肉の弾力も残っていた。星歌は先程からそれを掌で撫でまわし、指を這わせ、爪でつまみながら丹念に調べていた。


「キミの方が気持ち悪い。よくそんな死体をくっつけていられるものだ。絶望的だよ」
星歌のそれだって死体じゃないか」
「死体? これは資料だ。私がより高みに至るための素材だ。キミには理解できない。理解してほしくない」
「孤高の芸術家ってやつだね」


笑った狛枝から目を逸らして、星歌は腕の中にある『資料』を見た。20代前後、女性のもの。筋肉の付き具合からみて、普段から適度な運動を定期的に取り入れていたことが分かる。美しい足だ。細すぎず太すぎず、太腿は程よく引き締まり、ふくらはぎは絶妙な膨らみの曲線を描いている。だから『資料』として裁断したのだ。だが、別に星歌は足を好むフェティシズムとは無縁だった。星歌はその足を嗜好品ではなく自分の作品のための『資料』として、冷静な眼差しで解析していく。肌の肌理、筋肉の感触、骨の曲がり具合、関節の可動域、脂肪の色彩、そのすべてを脳内へと書き込んでいく。その眼差しには狂気にまで純化された知識欲のみがあった。


「どう? 新しい人形の役に立ちそう?」
「話しかけないでくれ」


『超高校級の人形師』である飴凪星歌が目指したのは、まさに人間と寸分たがわぬ人形であった。人間より美しい人形でも、人間より緻密に出来た人形ではない。星歌は限界まで人という形を人以外の素材で再現することに固執した。そうして、気が付けば星歌は人間の部分を切り刻むことに腐心するようになっていた。だがそれは嗜虐快楽を求めるわけではなく、古きの天才ダ・ヴィンチがしたように、ひたすら人間という対象を知ることにあった。おかげで、上等な道具さえあれば、星歌はそこらの解剖医のごとく人体を切り分けることが出来るだなんていう、人形師にはおおよそ縁のないスキルまで身に着けていた。それでも星歌は満足しない。否、出来ない。何をどうやっても、星歌の理想は現実の世界へと生まれ出ることをしない。


(ああ、足りない。知っても知っても知っても知ってもまだ足りない)


幾ら人の身体を調べようと、幾らその仕組みを理解しようと、何かが違う。何かが足りない。そんな飢えと渇きが星歌の絶望へと繋がり、気が付けば彼女は『超高校級の絶望』として名を連ねることになっていたのだ。江ノ島が唆したわけではない。いや、もしかしたら見えないところで彼女の手が伸びていたかもしれない。だが、星歌の絶望は江ノ島を信仰することはなく、ただただ、自分の作品の昇華へと向けられていた。そうして舐め尽くすようにして足を丹念に調べたのち、星歌がふと顔をあげると、そこにはまだ星歌を眺めている狛枝がいた。一体何が楽しいのか、狛枝は『人類史上最大最悪の絶望的事件』が起きてからずっと星歌と行動を共にしていた。別に何かを言い合わせたわけでも、互いに必要としているわけでもないのに。そして、星歌の目は『彼女』の手を捉える。マニキュアが剥がれてぼろぼろとなった『彼女』の指を。


「………なあ、狛枝。マニキュアを塗ってやろうか」
「どういう風の吹き回し?」
「気分転換だ。その手ももしかしたらいい『資料』になるかもしれない」


あれは狛枝の血が通っているわけではなく、文字通りただ縫い付けているだけなのだが、それでも死に体のまま他の生きた人間に付属されている腕とはどんな風になるのか、少しだけ興味があった。しかし、マニキュアなど星歌が持っているはずがなく、仕方なく彼女は腰掛けていた瓦礫から立ち上がり、最寄のコンビニに入った。すでに人などおらず、強奪の限りを尽くされた店の中は荒れ果てていた。やはり食料品がまっさきに持って行かれたのだろう。化粧品の棚のところには、幸運なことに赤黒いマニキュアが一つ落ちていた。幸運、という言葉に今まで話していた男を思い浮かべ、星歌は砕け散ったガラスを踏みつけながら踵を返す。帰った廃墟には、狛枝が膝を抱えて行儀よく星歌を待っていた。彼女の姿を見るとぱっと顔を輝かせて、きっと飼い犬がいればこんな感じなんだろうと思う。可愛いとは思わないが。


「狛枝」


名前を呼べば、狛枝はすぐに察してこちらへやってきて、大人しく隣に腰を下ろして手を出してきた。触れてみれば、冷たく弾力はない。掌がぶよぶよとしていて、すでに腐敗が始まっているのだろうと分かった。それなりに防腐処置は為されているようだが、それも素人によるもので、少しずつだが腐り始めている。だが、星歌はそれを気にすることはなく、むしろ、半端な防腐処置で腐りかけ始めた人の身体はこんな感触なのかと観察しながら、マニキュアを塗っていく。つんとした匂いが鼻を掠めて、生き物の匂いばかり嗅いできた星歌の鼻を過剰に刺激した。


「上手だね、星歌。さすが超高校級の人形師ってことなのかな」
「こんなものは、器用な人間なら誰でも出来るものだよ」


つい、と刷毛で凹凸のないように綺麗に整え、一本、また一本と色を上書きしていく。はっきり言ってこの色は『彼女』に似合っていなかった。『彼女』には鮮やかな色が似合う。そう思いながらも、星歌はその『彼女』に似合っていた色を澱んだ赤で塗りつぶしていく。そもそも、この手が本当に江ノ島のものかも分からない。だが、少なくとも目の前の男にとってはこれは『彼女』の腕なのだ。ならば自分がしゃしゃり出ることものだろう。星歌は沈黙を選び、マニキュアを塗り終わるころには『彼女』の手にはすっかり星歌の体温が移ってしまっていた。それにまた狛枝が頬を寄せる。今彼が頬を寄せているのは『彼女』の手なのだろうか、それとも移った自分の体温だろうか。


「ありがとう、星歌
「どういたしまして」
「ふふ、でもこれ、似合ってないよね。本当に似合ってない。可笑しいよ。絶望的に似合ってない」
「そう。それは良かった」


狛枝の嬉しげな笑みを見ながら、星歌はそのマニキュアをポケットの中に仕舞う。狛枝は似合わない色を塗られた哀れな手を見ながら、またもやうっとりとし始めた。星歌はそんな狛枝を横にして、先程放り投げた足を再び抱えた。ぼたぼたと残っていた血液が毀れ落ちる。鮮度を最優先にして求め、血抜きも加工もせずに吟味していたため、星歌の左腕はべったりと血で汚れていた。そのことにようやく気が付いて、だがそれを気にする風でもなく、星歌は再び『資料』へと没頭していく。瓦礫の上で他人の身体を弄ぶ二人は、互いの絶望を食い食みながらその日も生きていた。