狛枝くんに誓う






ふわふわと裾が風にはためいて揺れる。ゆらゆら、ゆらゆら。その裾の下、あるべきものがないのは狛枝が自分で切り落としたからだ。そして、ついこの前まではそこにはちゃんと左手があった。ただし、彼のものではない、江ノ島盾子のものだったが。


「気になる?」
「うん」


私は緩く結ばれている左裾を引っ張る。更生プログラムから目覚めたときには、すでに凪斗の左手(正確には江ノ島盾子の左手)は切り離されていた。おそらく、プログラムに入る前に取り除かれていたのだろう。元々他人の手を無理やりくっつけていたのだ。腐敗や傷みは進んでいただろうし、あの島での記憶を植え付けられたあとにあの左手を見たら、それこそ錯乱しても可笑しくないだろう。


「ねえ、左手、作ってあげようか」
星歌が?」
「左右田くんだっているんだ。私と彼が手を組めば、絶対に出来る」
「超高校級の人形師が作る義手かあ。ボクには贅沢すぎるよ」


そう言って、凪斗は小さく笑った。プログラムから目が覚めてから、彼は私を星歌と呼び、私は彼を凪斗と呼んでいる。別に示し合わせたわけではなく、自然とそうなっていた。だからといって何かが劇的に変わったわけではなく、私達は相変わらずこうしてのんびりと南国生活を過ごしている。


「そういえば、日向クンは?」
「今日もモニタとにらみ合ってるよ。私はああいう方向では役立たずだから」
「あはは。それならボクが一番の役立たずだよ」


凪斗は覚醒が難しいと言われていたメンバー、つまりはあのプログラム内で死んでしまった生徒達のなかで一番最初に目が覚めた。まだ彼らを目覚めさせる有効的な方法も確立されていないにも関わらず、彼は極自然に目を覚ました。まさに奇跡と言ってもいい。さすが超高校級の幸運ということだろうか。


「だけど、凪斗の目が覚めたから、可能性がゼロじゃないって分かったんだ。ただの幸運でもね」
「ボクの目覚めが、幸運だったと思うの?」
「ああ。少なくとも、私にとってはこれ以上と無い幸運だったよ」
「ボクが目覚めなくたって、日向くんは諦めたりはしなかったと思うけど」
「そうだね」


それはその通りだ。それでも、彼は何もないこの海のような広い世界で、自分の未来を掴もうと歩みを進めた。彼が手を引いてくれたから、歩み始めてくれたから、私も他の残ったメンバー達も絶望から抜け出すことが出来た。だから諦めないし、絶望なんてしない。いつか自分達の力で築いた道が希望に届くと信じて。


「それでもやっぱり、私は凪斗とこうして話せることが嬉しい。凪斗は?」
「………どうだろう。正直、ボクは今の状態が正しいのかどうか分からない。ボクはあのまま目覚めるべきじゃなかったとも思ってる。そもそも、今が現実なのかさえ疑わしく思うよ。君が、」


私が立ち上がると、凪斗も私の後を追うようにして腰を上げる。砂浜を振り返れば、私と凪斗の二人分の足跡があった。波に消されることも風に隠されることもなく、今いる場所へと一歩一歩刻まれている。潮風が凪斗の空っぽの袖をまた揺らした。その裾を掴んで、引っ張る。中途半端に言葉を切った凪斗が、微笑んで歩き出した。


――――君が隣にいるなんて、それこそ夢みたいだ」
「失礼だな。この感触が夢だっていうの?」


私は足を止めて、一歩後ろを歩く凪斗の方を振り向く。ざり、と砂が靴の中に入ったけどそんなことは気にならない。ほんの少し爪先を伸ばして、肩を掴む。砂浜ではお互い足場が不安定で、引っ張られた凪斗は軽く私にもたれ掛るような姿勢になる。その勢いを利用して、目を閉じて、唇を合わせる。凪斗の唇は、思ったよりもずっと温かかった。唇を触れ合わせるだけのキスは思ったよりも味気なくて、なのに、唇を離したあとも触れた跡はじんじんと痺れていた。ああ、これが夢だっていうなら、ここまでのリアリティを造りだした自分の脳を褒め千切ってあげよう。


「ちゃんと本物だよ。君も、私も」
――――
「ちなみに初めてだったから。このキスに誓って言うよ。君が目覚めたことは私にとって幸運で、紛れもなくここは現実だ」
「え、――――星歌、」
「………うん。ねえ、凪斗。やっぱり左手はあった方がいいよ」


何かを言いたげな凪斗を無視し踵を返して、再び砂浜を歩きだす。頬が熱くて、だけど、達成感が身体の内側から込み上げてくる。してやったりという、悪戯が成功したときのような爽快感にも似ている。後悔も反省もない、あのプログラムの世界で作られ、育てられた気持ちは今確かにこの現実でも息づいていた。これは嘘じゃない。作り物じゃない。私は凪斗が好きだ。好きなんだ。これはニセモノなんかじゃない。プログラムなんかじゃない。


「………やけに左手に拘るね」
「当たり前だよ。左手がないと、結婚指輪が嵌められないからね」


言ったあと、どうしても凪斗の顔が見たくてもう一度振り向いた瞬間、抱きしめられる。だけど、動きを封じるには右手一本の拘束では緩い。だけど私はそれに甘んじて捕まっておくことにした。肩に頬を擦りつけて、ちらりと凪斗を見遣る。今は太陽も高い昼間だ。赤く染まった凪斗の頬は、決して夕日なんかの所為じゃないのだ。もちろん、私の頬もきっと同じ色だろう。