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「うーん、70点」
「やった、及第点」
「旗がないからマイナス30点」
「旗の配点が高すぎる」


初めて作ったオムライスだったが、速攻の暗記で作ったものにしては上手い方ではないだろうか。セイカはそんな自画自賛で万次郎採点により40点評価を食らったオムライスを崩していく。生憎と卵はふわとろではないし、少しご飯はべたついている。しかし味付けはまあまあ良い線をいっていると思うし、綺麗に盛り付けも出来た。付け合わせのサラダとスープは即席のものだが、夕食と銘打っていいくらいには整っているはずだ。


「そういや、エマちゃん遅いね。部活とか?」
「エマは部活入ってねーよ。今日は友達の家に泊まるって」
「そうなの?」
「さっき連絡来た」
「そっかぁ」


向こうはやけに張り切った声で「気ぃ効かせてあげたんだから、ちゃんと頑張ってよねマイキー!」と言ってきたが、余計のお世話というべきかなんというべきか。別に俺とセイカはそんなんじゃねーし、とオムライスを突きながら、ちらりとセイカを見る。ついさっきまで、エマのエプロンを着て台所に立っていたセイカは黙々とオムライスを頬張っている。その視線に気付いたのか、セイカはもぐもぐと口を動かしながら目だけで「なに?」と訊いてくる。このくらいのことなら、まだ分かるのだ。


「いや、エプロン似合ってなかったなーって思っただけ」
「それはどーも」
セイカって料理しない派?」
「するけど、あんまり凝った料理とかは作らないかな。味付けと火の通りさえオッケーならいいや、みたいな」


オムライスのレシピも今日初めて知った、と言うセイカに万次郎はぱちくりと目を瞬かせて、すでにあと一口分しか残っていないオムライスを見た。自分でリクエストしたのだから、これが自分のために作られたオムライスだということは理解していた。だけど、改めて言葉にされて、彼女がレシピを調べてまで作ってくれた初めての料理だという事実に胸が躍り出す。自分のために。そう思うと、じわじわと嬉しさが滲んで頬が熱くなる。ああ、まただ。あの、走り出したくてたまらなくなるような、今すぐ叫んで誰彼構わずこの喜びを伝えたくなるような、そんな衝動。嬉しくて嬉しくて、身体が飛び跳ねそうだ。


「マイキー、どうしたの?」
「これ、おかわりとかねーの?」
「ないよ。ぴったり2人分しか作ってないし」
「なんでだよ!」
「だって美味しくないって言われたら困るし」
「俺がオマエの作った料理不味いなんていうわけねーだろ!」
「さっきは40点だったのに?」
「それはそれ。これはこれ!」


我儘な子供そのものの振る舞いでいちゃもんをつける万次郎に、セイカは「そんなこと言われても」と困り顔をする。自分の分を分けてあげてもいいが、万次郎と同じくセイカの分もすでにスプーン二掬い分ほどしか残っていない。冷蔵庫のなかの余りものを使って何か作ろうとも思ったが、台所の主であるエマの許可なしに食材を使うのもなんだか躊躇われる。


「あ、そうだ。マイキーにあげようと思ってたやつがあるんだった」
「俺に?」
「うん。これなんだけど」


セイカは椅子に引っ掛けていた袋を手元に寄せると、中身をテーブルの上に広げる。パッケージには如何にも子供受けしそうなデフォルメのパンダが陽気に手を広げて描かれていた。中には串に刺さったミニカステラが入っている。懐かしいデザイン。それを目にするのは6年ぶりであるはずなのに、以前とまったく変わっていないとすぐに分かった。


「………これ」
「マイキーと一緒に買いに行こうって約束してた駄菓子あったでしょ? 今日、駄菓子屋さん覗いたら置いてあったから、買ってきたの。覚えてる?」
「………覚えてるよ。俺、オマエが帰ってきた後、一緒に食べようと思ってさ。オマエがいなくなった後に1人で買いに行ったもん」


結局、オマエが帰って来るの待ってたら腐っちゃったから、そのまま捨てちゃったけど。万次郎は1つパッケージを摘まみながら、指先でぷらぷらと揺らす。その揺れる駄菓子の向こうで、セイカは「そっか」と平坦に返しながらオムライスの残り2口をぱくぱくっと勢いよく食べてしまった。別に謝って欲しいわけでも、引け目を感じて欲しいわけでもなかったが、もう少し申し訳なさそうにはして欲しい。セイカは「ごちそうさまでした」と一度手を合わせたあと、テーブルに置かれた串カステラを1袋手にとって封を開けた。


「ちょっと遅くなったけどさ。これ、一緒に食べてくれる?」
「………いーよ」
「ありがとう」


本当は、もっと怒るつもりだった。今までどこにいたんだって、なんでもっと早く帰って来なかったんだって。どんな気持ちで自分が待ってたのか、一晩中かけてでも言い聞かせて説教してやろうと思った。言いたいことも言わせたいこともたくさん、たくさんあった。けれどあの夜。彼女の姿を見て、夢にまで見た光景を目の前にして、すべて吹っ飛んでしまった。6年ぶりに現れた彼女は想像していたよりもずっと鮮やかだった。烈しかった。眩しかった。抱きしめて名前を呼ぶのが精いっぱいで、それは多分、今も同じで。あれほど食べるのがもったいないと思えていたオムライスを一気にかきこんで、一足先に串カステラに舌鼓を打っているセイカに追いつくように、万次郎も一気に3つ、串からカステラを引き抜いて食べる。


「あっま」
「こんな味なんだね。この砂糖振りかけまくってる安っぽさ、まさに駄菓子って感じですごく好き」
「口の中すぐぱさぱさになんだけど」
「お茶淹れよっか。日本茶とかある?」
「ポットの下の引き出しにある」
「コップはどれ使えばいいかな」
「あー、猫描いてるやつはエマので、青い模様描いてるのがじーちゃんのやつ。あとは適当」
「分かった。ついでに食器下げちゃうね」
「ん」


てきぱきと食器を片付けて流しに移動し、棚のなかを覗き込むセイカを見ながら、万次郎は2本目の串カステラに手を伸ばす。そういえば昔は、あのコップの置いている高さまで手が届かなくって、よく踏み台を使っていたっけな、と思い出す。茶葉の場所は分からずとも、コップやポットの位置は覚えているらしい。茶葉を新しいものに替えて湯飲みに熱々の日本茶を注いで目の前に戻っていく動作には、6年間の空白など微塵も存在しない。


「美味しいね、これ」
「うん」
「お風呂どうする? もう入れてくる?」
「いいよ、俺がやるから」
「マイキー、お風呂入れられるの?」
「そんくらい出来るし」
「じゃあ、その間に食器洗っちゃうね」


なんとも庶民的な会話、ありきたりな話題。本当に自分たちは6年間も離れていたのだろうか。彼女の馴染み加減は、そんな錯覚さえ思わせる。よそよそしさはなく、かといってあからさまな馴れ馴れしさもなく。もしも彼女があの日、あの男と一緒に姿を消さなければ、そんな『もしも』の未来から彼女だけ抜け出てやってきたかのようだ。それとも、自分がそんな風に思いたくて、思い込みたくて、感覚を捻じ曲げてしまっているのだろうか。


「あ、あとね、これも買ってきた。マイキーが好きだったやつ」
「こっちはセイカのお気に入りだったやつだ」
「前よりちょっとサイズ小さくなってない?」
「さあ、分かんねーけど。なあ、このオマケ集めてなかった?」
「あー、集めてた集めてた。今はもうオマケ入ってないんだね」


2人して、夕食を食べたばかりなのにテーブルの上で駄菓子パーティーを繰り広げる。前と味が変わった気がするとか、リニューアルしすぎてもう原型を留めてないとか、昔は高いと思ってたのに今では箱買いも余裕で出来るとか、そんな頭の端から浮かんだことばかりをぽんぽんと話していく。嫌いな味があれば押し付けて、最後の1個の取り合いになればじゃんけんして。何もかもがあの頃のままみたいに思えた。けれど、最後の1個、じゃんけんに負けて彼女の手に渡った金平糖を見ながら零したその一言で、ぬるま湯みたいな現実が罅割れる。


「マイキー」
「なに?」
「私、真一郎さんに挨拶してないままだった。挨拶、してきてもいいかな?」
「、うん」


そう。そうだった。何もかもあの頃のままだなんて、そんなわけがなかったのだ。金平糖。セイカが家に来るたびに、真一郎にプレゼントとして渡してたことを思い出す。万次郎は駄菓子の袋をすべてゴミ箱に突っ込み、小さく巾着の形に包まれたビニールを後生大事そうに両手で持つセイカを仏壇の前まで案内する。セイカはしばらくじっとその仏壇を見ていたが、金平糖を仏前に備えると、ゆっくりとマッチを擦って蝋燭に火を点ける。それから線香の先端を焼いて線香立てに立てると、手を合わせ小さく俯いた。それを、万次郎は少し離れた場所に立って見つめる。百合のようにしゃなりと伸びる背中。


「………シンイチローも、オマエが帰ってくるの、ずっと待ってたよ」
――――


俯く角度が少しだけ深くなる。ここからでは、どんな顔をしているのか分からない。ああ、言わなくてもいいことを言ってしまった。けれど知っていて欲しかった。彼女があの日、何をしたのか。どんな風に、自分達を傷つけていったのか。彼女のなかではすべて納得済みのことで、理由があっての行動だったのかもしれない。それでも、彼女は自分達を置いていったのだ。何も説明せず、そして今も何も話さず、またここに自分を置いていこうとしている。


(オマエにとって、俺はそんなに軽い存在なの。約束一つで放っておけるような、どうでもいいヤツなのかよ)


見下ろす背中は小さい。記憶の中にあるその姿は以前より成長しているはずなのに、頼りなさも小ささもそのままで、なのに、前よりもずっと遠くて。今、その背中にしがみついて、引き倒して、無理やりにでも問い詰めれば彼女はずっとここにいてくれるのだろうか。今胸の裡にあるものをすべてぶちまけて晒してしまえば、彼女は自分を選んでくれるのだろうか。もうどこにもいけないよう、どんな手段を使ってでも引き留めておくべきなのかもしれない。


「………なあ、セイカ


身体の奥からぐらぐらと何かが沸き立ってくる。苛立ちにしては冷たく、怒りにしては粘ついていて、懇願にしては毒々しい。名付けることは出来ずとも、それがよくないものであることは万次郎にも分かっていた。さっきまでとても楽しかったのに。全部元に戻ったと、そう思えていたのに。極寒の海に放り込まれた灼熱の硝子みたいに、仄かな幸福感が罅割れていく。これ以上ここにいてはいけない。次の1秒、自分が彼女に何をしでかすのか、自身にも分からなかった。


「………俺、風呂入れてくる」


足を動かす。指先は冷え切っていて、畳を擦る音が妙に癪に障った。セイカは万次郎の気配がなくなったのを確認して、そっと後ろを振り向く。それからまた仏壇へと向かい、もう一度手を合わせた。


「ごめんなさい、真一郎さん」


彼には謝らないといけないことばかりで、故に、セイカに言える言葉はこれだけだった。何も言わずに消えてしまったこと、自分がいなくなったことで万次郎にたくさん迷惑をかけたこと、その理由の一つも話さない自分の不誠実さ。そして、また、万次郎の前から消えることになるであろう自分の薄情さ。再び、彼を悲しませてしまうことへの罪悪感。ああ、それでも。それでも私は、今選んだ道を進むことを諦めきれないから。


――――ごめんなさい」


重ねられる言葉など、これ以上なかった。セイカは正座を崩すと、昨日割り当てられた客間へと戻る。襖を開けると、すでに布団が敷かれており、その上に今日のパジャマが用意されていた。おそらくエマが用意してくれたのだろう。下着は昨日セイカが着ていたものを洗濯してもらったもので、パジャマ代わりの服はエマが着るものにしてはやけに素っ気ないデザインだった。


(これ、マイキーのやつかな)


万次郎とセイカの身長はほぼ変わらないが、やはり肩幅などは男女差がある。それでもまあ着られないことはないか、とセイカは有難く借りることにした。しばらくすると万次郎が「お先にドーゾ」と声を掛けてくれたので、その言葉に甘えて先に風呂を頂くことにする。今日は1人で入っているので、進言してくれたエマには悪いがトリートメントはサボり、必要最低限のことだけ済ませて湯船に浸かる。しかし、昨日と違い会話もなく、さりとて長湯しながら考えごとをする気分でもない。セイカは早々に湯船を出て入浴を切り上げることにした。


「うーん、ちょっと余ってる」


袖を通してみれば、やはりTシャツは少し肩幅が合っていない。それでもずれ落ちるほどではないし、ちょっと首元が涼しいなと思うくらいで、胸元が危ういということもない。首筋の露出具合で言えば、昨日貸してくれたエマのTシャツと同じくらいだ。このくらいならセーフだろう、とセイカはまだ雫の滴る髪をタオルで拭きながら、居間でテレビを見ている万次郎へと声を掛けた。


「マイキー、お風呂あがったよ」
「おー。あのさセイカ、冷蔵庫、に――――は?」
「ん?」
「なにそれ」
「どれ?」
「服。なんで俺の着てんの」
「エマちゃんがパジャマにって用意してくれたと思うんだけど………」
「はあ~~~~~~~~」


万次郎は呆れているのか感心しているのか、微妙かつ奇妙なイントネーションで声をあげると、ごろんと寝転がってしまう。やばり本人の許可なく着てしまうのは駄目だったろうか。或いはエマが間違って用意したという可能性もある。


「ごめん、マイキー。他のにしようか?」
「他のって、替えあんの」
「ないけど………」
「いいよ、それで。むしろそれがいいですお願いします。………エマ怖ぇ」


今までの流れのどこにエマを怖がる理由があったのか。はて、と首を傾げるセイカをよそに、万次郎は塩をかけられた青菜みたいに草臥れた様子で「冷蔵庫にアイスあるから食っていいぞ………」と言い残して風呂場へと言ってしまった。万次郎の様子も気になったが、アイスという誘惑に負けてセイカは冷蔵庫のなかを覗き込んでみる。そこにはガリガリ君と袋に入った苺味のかき氷が一つずつ寝転がっていた。駄菓子好きのセイカの好みをよく理解しているチョイスだ。セイカはしばらく迷った後、かき氷を選んで袋を開ける。ただの砕いた氷にシロップをかけて商品にする。日本人の発想とはまことにすごい。つけっぱなしにされたテレビを見つつ、かき氷をスプーンで掬う。食べ終わって身体の火照りもほどよく引いてきたころには万次郎も風呂から上がってきていて、そのまま居間を出ていったと思うと、すぐにドライヤーを持って帰ってきた。


セイカ、髪乾かしていい?」
「どうぞー」
「ん。じゃあお邪魔して」


そういうと、万次郎は座っていたセイカの後ろに移動し、タオルで雑に拭いただけの髪を手に取る。そこで初めて“乾かす”の対象が万次郎ではなく自分だと気付いて、セイカはぱっと振り向いた。


「え、私の髪?」
「そう言ったじゃん。いいだろ?」
「まあ、別にいいけど」
「ならやる。はい、前向いて」


セイカも他人に髪を触られることにはさほど抵抗がない(というより、今までの生活でいろんな人間に触られてきたので、慣れざるを得なかった)ので好きにさせておこうと、万次郎に背中を向けて膝を抱え座りなおし「よろしくお願いします」と身を任せる。


「熱くねーか?」
「ちょうどいい感じ。マイキーも後から乾かしてあげるね」
「俺はいいよ。面倒だし」
「そう?」


ドライヤーの心地よさと想像していたよりも優しく髪を梳く万次郎の指に、眠気が襲ってくる。お腹もいっぱい、身体もぽかぽか、ともなれば睡魔がやってくるのも仕方ない。瞬きは次第に鈍くなり、口調も間延びになってくる。ふわふわとした意識でドライヤーの音を聞いていると、まるで流れの速い潮流の中にでもいるような気分になる。


「なー、こんな感じでいい? そろそろ腕疲れてきた」
「ん、いいよ。ありがとう」
「………髪長ぇな。ずっと伸ばしてんの」
「うん。ずっと伸ばしてる」


この街を離れたあの日から、一度も髪に鉸は入れていない。ドライヤーの音が鳴りやんだあとも、しばらく万次郎はセイカの髪に触れていた。まとめて持ち上げて「重っ」と言ってみたり、毛先をくるくると丸めて遊んでみたり。それに飽きれば、弄って乱れた髪に櫛を通して、滑らかさを肌で確かめるように何度も何度も撫でつける。まるでペットのトリミングだ。このままでは寝落ちしそうだったので、うんと一つ背伸びをして立ち上がる。


「じゃあ、私もう部屋に戻るね。おやすみ、マイキー」
「………なあ、セイカ
「んー?」
「今日さぁ、一緒に寝ねぇ?」
「………一緒に?」
「うん」


聞き間違いか。予想だにしていなかった言葉に、眠気も出かけていたあくびと共に引っ込んでしまう。見下ろす形で万次郎の顔を覗き込めば、黒い瞳が上目遣いにセイカの反応を窺っている。その表情はあの日と同じものだった。セイカが万次郎を置き去ったあの日。不安と心細さを必死に押しこめようとしている小さな子どもの表情。薄れ消えていく思い出のなかで、未だ強く残っている映像。桜の日。あの日は風が強かった。


「だめ?」
「いいよ」
「っあのさぁ、言っておいてなんだけど、簡単にいいなんて言ってんじゃねーよ。昨日みたいに3人ってわけじゃねーんだから」
「別に変なことするわけじゃないんでしょう?」
「なんでそう思うんだよ」
「そういうことしようとする人は、そういう顔しないと思うから」
「………どんな顔だよ」


自分でも覇気のない顔をしているとは自覚していたが、そんなに情けない顔をしていたのだろうか。万次郎がむすりと頬を膨らませると、セイカは笑いながら「マイキーの部屋でいい?」と柔らかく訊いてきた。その緩い感じが気に食わない。こっちには虚勢を張る余裕さえないというのに。


「いいけど。もーちょっと起きとかねぇ? また明日なんか予定あんの?」
「明日は特にないかなぁ。マイキーは学校でしょう?」
「サボる」
「いいの?」
「学校よりオマエといる方が大事だからいいんだよ」
「出席日数とか大丈夫なの?」
セイカはそーいうのは気にしなくていいの!」


どうせまた離れていってしまうのだから、せめて彼女がここにいる間くらいはずっと傍にいたい。2人はどうせ夜更かしするなら、と台所の戸棚に仕舞ってある来客用の少しお高いお菓子をくすねて万次郎の部屋に持っていった。

2024.04.04