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「ウン。なんかひどいことになってんね。何があったの? ってーかあいつどこ?」
「あ、いや、えっと」

ヒーローの如く颯爽と現れた万次郎に、三途は目を丸くする。隣にはあくびをかみ殺すドラケンもいて、どうして彼らがここにいるのかと頭を捻ってしまう。いやその疑問の前に訊かれたことに答えなければ、と口を動かしたところで店の中から「三途くん、マイキー!」と坂道を転がってきたかのような勢いでセイカが飛び出してきた。その姿に、万次郎の表情にあからさまな安堵が浮かび、ドラケンはそんな万次郎の姿に何故かげんなりとした顔を作った。


「よっ、新宿どうだった?」
「うん、すごく楽しかった。楽しかったけど、その話はあとでね。三途くん、怪我の手当しよう」
「いえ、このくらい」
「駄目だよ。さっきおばあさんに救急箱借りてきたから」


ぐいと三途の腕を引っ張ると、セイカは三途をそのまま店の奥まで引っ張っていく。話を後回しにされた万次郎はぷくりと頬を膨らませて、セイカを追って店の中へと入っていく。店の内装はセイカが通っていたときとまったく変わっていない。窓に張り付けられた漫画雑誌の付録ポスターは随分と日焼けしていて、菓子のラインナップも多少の入れ替わりはあれど、懐かしいものばかりだ。その奥、畳二畳分の小さな飲食スペースにセイカは三途を座らせる。


「うわ、首のところ切れてるね。手は大丈夫? あ、服破れてる。こっちも切ってるね。ガラス?」
「ラムネの瓶です」
「ちょっと見るね。触ると痛いかも、ごめん」


セイカはまずは服の裾を捲り上げ、傷の様子を見る。硝子の破片が入っていないか、傷口に指を添えて顔を近づけてじっと傷口を覗き込む。縫うほどの深さではないものの、それなりに血は出ているし皮膚もぱっくり割れている。それを直視されるというのはなかなかに気まずい心地で、三途は視線を横に逃がす。と、その様子をこれまたじっと見ている万次郎に気付き、その表情がどんどん冷えていくのが見て取れて、三途はそちらからも目を逸らした。針の筵とはこういう状況を言うのかもしれない。


「ん、破片とかは入ってないみたい。一応水で洗ってた方がいいかも。水道借りようか」
「いえ、そこまでしてもらわなくてもいいので」
「そう? なら、消毒液で洗っとくね。沁みると思うけど」


セイカは予め借りてきたタオルを広げて三途の腕に包み、ボトルのオキシドールを容赦なく傷口にかけていく。一気に火で炙られたような痛みに押し殺した悲鳴が漏れるが、セイカは「もうちょっとね」と手を緩めることなく処置を続けていく。消毒が終われば、市販の軟膏を塗ってガーゼを当て、包帯を巻いていく。その手際の良さに、こういうことに慣れているのだろうか、と万次郎は問いそうになってぐっと飲み込む。


「はい、これで良し。次は首ね。ちょっと引っ張るね。こっちもガラス?」
「あー、多分」
「表、破片が散らばってたもんね」


先程と同じように顔を近づけて破片が残っていないか検分しているのだろう。セイカの指先がそっと肌をなぞり、微かな吐息が傷口を擽る。その感覚に背筋が粟立ち、声が出そうになるのを殺した代わりに肩が跳ねた。「ごめん、痛かった?」「いえ」頼むから早くしてくれ、と俯き髪を掻き分ける指の力を強くする。さすがに首に消毒液を浴びせるわけにはいかず、セイカは脱脂綿に消毒液を含ませるとそっと傷口に当てていく。腕の傷に比べて浅い傷は出血も止まっているし、傷跡が残るようなものでもなさそうだ。


「どうしようか。首に包帯巻くと苦しいかもしれないから、大きな絆創膏とかにしとく?」
「そのままでいいですよ。そんなに深い傷でもなさそうですし」
「了解。このままにしておくね」


できた、とセイカが三途の襟元を直し、救急箱を片付ける。と、奥に引っ込んでいた老女がやってきて、おろおろと話しかけてきた。さっきまで不良たちに啖呵を切っていた人物と同じとは到底見えない。


「大丈夫かい? 何か他にいるものがあれば、言ってくれていいからね」
「有難うございます。おばあさんも足大丈夫ですか? 痛みが酷くなるようなら、病院に行った方がいいかもしれません」
「わたしゃ平気だよ。店の前を片付けて来なくちゃいけないからね。警察も呼ばないと」


警察という言葉に、万次郎の顔が曇る。最初は自分達が警察の世話になるのは都合が悪い、という意味かと思ったが、もう一つ警察を厭う理由があることを思い出した。そうだった。彼女がここにいることは警察に知られない方がいいのだった、と三途は救急箱を片付けるセイカを見やる。セイカも二人の言いたいことは分かっているのか、頷き一つを返して老店主に救急箱を返す。


「それなんですけど、おばあさん。出来れば、警察に言うのはちょっと待っててもらってもいいですか?」
「待つ? 待つってなんだい」
「私の親、すごく厳しくて。不良の人たちと友達だって知られたら、もうおうちの外に出してもらえなくなっちゃうかもしれないから………」


肩を落とし身体を小さくして、如何にもありそうな嘘をすらすらと並べ立てるセイカセイカの上品な装いとしおらしさに(どこか育ちの良いお嬢様なのだろう)と納得したらしい老女はじろじろと万次郎と三途を見た後「そうなのかい」と同情的な声を出した。どうやら万次郎と三途は立派な不良認定を受けたらしい。間違ってはいないけれど。


「そりゃまあいいけどね。表のボンクラ共が逃げちまわないかね」
「あ、それなら大丈夫。今ケンチンが縛り上げてるから」
「え、そうなの?」
「そーなの」


それなら後は自分達が去るだけだ、と荷物を持って立ち上がったところで、老女の声が再びかかる。どうしたのだろう、と振り返ると、老女はセイカの顔を見て、次に全身にくまなく視線を走らせ、しゃがれた声で言った。


「お嬢さん、前にここによく通ってなかったかね?」
「え?」
「ほれ、金髪の男の子と一緒に――――。ああ、もしかして、あの時の男の子はその子かい?」


まさか覚えられているとは思わなかった、と万次郎はセイカの方に視線を向ける。セイカがいなくなった後、万次郎はすっかりこの店から足が遠ざかっていた。元々セイカがここの駄菓子を気に入っていて、万次郎はそれについてきていただけだ。だから、セイカがいなくなった後、万次郎はこの店に顔を出すのを止めた。ここにはセイカとの思い出があり過ぎて、幼い万次郎には遠ざける以外の選択肢が見つけられなかったのだ。セイカは老女の訝し気な声を聞いて、緩く首を振った。


「いえ、ここに来るのは初めてですよ」
「そうかい? なんだか見覚えがあると思ったんだがね………」
「まあ、世界には似た顔の人間が三人いるって言いますし」
「そうかもしれないねぇ。髪の色もちょっとばかし違うし………。なんでも、誘拐事件に巻き込まれたとか」


あの事件は児童誘拐ということもあって、当時はよく騒がれた。すぐにその話題性を失って忘れ去られてしまった事件ではあるが、今でもあの頃のことを語るとき、一人二人はこんな事件があったと話に上げるくらいには、この辺りの住人の記憶には残っている。


「世の中物騒なことばっかりだよ。まだその子も見つかってなくてね。どこかで元気にやってればいいが………」
「早く見つかるといいですね」
「本当にねぇ。それと、改めて助けてくれて有難うね。そっちの子も。まあちょいとやりすぎだとは思うけどね」
「いえ、オレは………」


別にこの店を助けたかったわけでも、正義に駆られたわけでもない。ただ、セイカが飛び込んで面倒なことになるよりは自分でやった方が後々楽だと思っただけだ。暴力を振るって感謝される、という立場に慣れていない三途は、何も言えず店主の感謝を黙殺する。老女はそんな三途をにこやかに見つめ、気を付けるんだよ、とだけ言って、警察に電話をするため店の奥へと引っ込んだ。今まさに、その時連れ去られた女児が成長して目の前に現れたとは遂に気付けずに。


「さ、行こっか。退散退散」
「あんな口止めでいいのか?」
「大丈夫なんじゃない? あのおばあさんの前では私の名前出してないはずだし、いけるいける」
「………オマエがいいならいいけど」


どこかもやついた表情の万次郎の背をぐいぐいと押して店の中から出ると、表では万次郎の言った通り、店の商品棚にぶらさげられていた縄跳びでぐるぐる巻きに拘束された男たちがだるまになっていた。その横で辛うじて破壊を免れた椅子に座っていたドラケンは、万次郎たちが出てくると弄っていた携帯を畳んでこちらへとやってくる。


「もうすぐ警察来るってさ。俺らも行こうぜ」
「このままでいいのか?」
「いいんじゃねーの。サツに捕まるのもイヤだし」


万次郎の言葉に、ドラケンはちらりとセイカの方へと目を向けて歩き出す。その隣に万次郎が並び、後ろにはビニール袋をがさがさと下げたセイカと三途がついていく。ビニール袋の音が気になったのか、万次郎は振り向きながら「なにそれ?」と首を傾げた。


「オムライスの材料とたい焼き。あ、今ならまだあったかいかも」
「え、たい焼き? やった、腹減ってたんだよね」


ちょーだい、と手を出してくる万次郎に、なんならどこか腰を落ち着かせて食べようと周りを見る。しかし住宅街のど真ん中では公園や空き地などは見つからず、仕方なくガードレールに座って食べることにした。やや離れたところからパトカーのサイレンが聞こえてくる。もしかしたら、あの駄菓子屋へ向かうパトカーもしれない。セイカはガードレールに座った万次郎と三途に一袋ずつたい焼きを配る。エマの分として買ってきた分だが、ドラケンにも渡した方がいいだろうか。


「ドラケン君もいる?」
「いや、俺はいい」
「3つもある!」
「どれが好きか分からなかったから、とりあえず一種類ずつ買ってきたんだけど」
「えー。俺黒あん以外好きじゃねーんだけど。ケンチン、白あん食べてよ」
「イヤだよ」


なるほど、マイキーは黒あん派。セイカは今度いつ活用されるか分からない知識を脳内に書き留めながら、じいっとたい焼きを食べる万次郎を見つめる。さっきはお腹いっぱいで食べきれないと判断したため買わなかったたい焼きだが、今になってその判断が悔やまれた。どうして人が食べてるものはこんなに美味しそうに見えるのだろう。こんなことなら一つぐらい買っておけば良かった。そんなもの欲しそうな視線に気付いたのか、すでに尻尾だけしか残っていないたい焼きを摘まみながら、万次郎が首を傾げる。


セイカの分はねぇの?」
「うん」
「ふーん………。食べたい?」
「いいの?」
「カスタードならやってもいいけど」
「あり「その代わり」


ぴし、と人差し指をセイカの前に突き出した万次郎が、にんまりとした顔で笑う。それを両側から見ていた三途とドラケンは(あ、なんかロクでもないこと考えてんな)と瞬時に察知した。いたずらっ子と表現するにはあまりにもあくどいが、悪辣だと言うには邪気がない。なになに、と目を瞬かせるセイカに、万次郎は更に笑みを鮮やかにして言った。


「3回回ってワンって言って」
「マイキー………」
「何やらせようとしてんだよ」


女にやらせるようなことではないだろ、と万次郎を挟んで座っていた両名が各々呆れたような声を出す。冗談なのかもしれないが、もしも真に受けてしまったらどうするのか。しかし、それはそれとして、目の前の少女がどんな反応をするのか興味はあるので止めない。困るのか怒るのか呆れるのか。三人の視線がぴったりセイカへと集まれば、セイカはマイキーの条件に合点がいったと大きく頷き、徐に足を広げた。


軸足は右。
膝を軽く撓めて、横に広げた左足爪先で地面を蹴る。
空気を含んだシルクタフタのスカートを軽く手で押さえ、まるでオルゴールを飾るバレエ人形のように軽やかに回る。1回、2回、3回。地面をリズムよく蹴り上げた足がぴたりと止まれば、抱擁を強請るように両手が広がる。押さえる腕がなくなったことで回転の勢いが残されたスカートがふわりと広がり、滑らかな白い太腿が一瞬垣間見える。そして、これ以上となく幼気な笑顔で、


「わん!」


鳴いた。


「うっそだろ………」
「………すげーなお前」
――――


未だかつて、こんなに優雅かつ可憐な『3回回ってワン』を見たことがあるだろうか。卑屈さや惨めさなど一切微塵も抱かせない、むしろ愛らしさでこちらを圧倒してくるタイプの3回回ってワンだ。恐ろしい。どんな育て方をされたらこんなことが出来る女になるのだろう。将来が怖い。万次郎はすうっと表情を消すと、がしりと伸ばされた両手を掴んで引き寄せた。たたらを踏んで万次郎の目の前まで引っ張られたセイカは、座った万次郎を見下ろして無防備にたい焼きを待っている。ほんとうに、こいつは。


セイカ
「ん?」
「残りのたい焼き全部やるから、もうそれは俺以外の前でやるな。絶対に。いいな?」
「え、何か可笑しかった?」
「おかしかった! もうなんかいろいろおかしかったんだよ! ほら、三途なんか固まって戻ってきてねーし!」
「うわ本当だ。そんなに?」


三途は魂の抜けた顔でフリーズしている。猫が宇宙の真理に気付いてしまったような表情だ。きっとショートしてしまったんだろう。手に持っていた食べかけのたいやき(白あん)は地面で無残に潰れていた。分かるぞ三途、今のはヤバかったもんな。万次郎は同情と嫉妬を半々に抱きながら、セイカにたい焼きを押し付ける。セイカは「ありがとう、マイキー」とこれまた煌めく笑顔でたい焼きを受け取り、万次郎は天を仰ぐしかなくなった。なんか堪らなくショックを受けているんだけど、この衝撃を一体どう表せばいいのか分からない。今すぐ叫びながら走りだしたい気分。バブがあったらメーター振り切るまで走らせてた。


「んー、美味しい。カスタードだね、これ」
「絶対黒あんの方がいいって」
「私は元々洋菓子派だからこっちの方が好きかも。あ、三途くんにはこれ半分あげるね。落とした白あんの分」
「………いいんですか?」
「お、戻ってきた」


たいやきを落としたまま彷徨っていた三途の手に、カスタードのたいやきを半分こにして乗せる。皮のしっとりとした感覚に驚いたのか、それとも触れた掌の温かさが気付けになったのか、セイカを見上げる三途。しかし視線は微妙にずらされていて、セイカを直視出来ていない。セイカの肩を透かして向こうの電柱を注視している三途に、セイカは頷く。


「うん、召し上がれ。今日のMVPは三途くんだし」
「そうそう、アリガトな三途。ちゃんとこいつを連れて帰ってきてくれて」
「いえ、そんな。マイキーのためならこのくらい朝飯前ですよ。セイカさんがちょろちょろするのは大変でしたけど」
「ふーん?」
「あ、あー、そういやマイキー達はなんで駄菓子屋さんにいたの? 何か用だった?」
「ちげーよ。三途から電車の時間は聞いてたから、迎えに行こうと思ってただけ」
「でも、喧嘩してきたんだよね? 家で休んでた方が良いと思うけど」


実際喧嘩に立ち会ったわけではないけれど、決起集会にメンバーを集めるくらいなのだから、それなりの喧嘩――――抗争だったのではないか。そんなセイカの疑問に、ドラケンは大きな溜息を吐いて万次郎を見た。


「こいつ、今日ほとんど何もしてねーからな」
「ちょっとケンチン」
「終始上の空だったし、3分毎に携帯気にするし、まあさすがにそれじゃあ恰好つかねーってことで向こうの頭だけはマイキーにやらせたけど」
「それって」


三途はちらりとカスタードのたい焼きも平らげようとしているセイカに目をやった。つまり、万次郎はセイカのことが気がかりで碌に抗争に集中出来ていなかったと、そういうことなのだろう。万次郎はばつの悪そうな顔をしながら「別に楽勝だったしいーじゃん」とガードレールを踵で打つ。


「あーもーこの話はおしまい! セイカ、帰んぞ」
「もう帰るの?」
「帰るっ」
「じゃあ三途くん、今日はありがとう。すごく楽しかった。本当に――――
「………セイカさん?」
「ううん、なんでもない。怪我、お大事にね。それじゃあ」


腕の傷を慰めるように、そっと包帯を撫でる指先に含まれた慈しみに息が止まる。離れていく手に縋ろうとする反射は、今日一日ですっかり身体に馴染んでしまった動きだ。けれど、セイカの向かう先、こちらのやり取りを見ていた万次郎と目が合って四肢が凍る。バレただろうか。万次郎へと走り寄るセイカを引き留めようとした自分が、途方もなく滑稽に思えて拳を握る。ドラケンもここで別れるのか、小さくなる二人の背中を見送ってから三途の方を向いた。こちらを見る目には憐れみが多分に含まれているように思えて、ちょっとばかり苛立つ。


「なんつーか、貧乏クジだったな、三途」
「はは、そうですね。これならそっちの喧嘩に顔出した方が楽だったかもしれません」
「コーヒー奢ってやるよ。自販機ので良ければ」
「有難うございます」
「ブラックでいいか?」
「はい。今、口の中がすごい甘ったるいので、苦い方がいいです」


がさがさと聞こえていた耳障りなスーパーの袋の音が遠ざかり、やがて聞こえなくなる。振り向いたって無駄なことは知っていたので、三途はじっとドラケンが自販機を押す爪先を見つめながら、腕に巻かれた包帯にゆっくりと指を這わせた。


2024.02.21