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そこからは寄り道らしい寄り道もなく、しばらく歩けばレトロな木造駅舎が見えてきた。その駅に併設されている小さなカフェテリアに照準を定めたセイカは、三途の裾を引いて店を指さす。


「三途くん」


今日でもう何度目だろう。最初よりもあけすけにこちらを見つめてくる若草色の瞳も、健気に許可を待つきゅっと引き結ばれた唇も、裾を摘まんだ指の控えめさも、すべてが男心を擽る。そして何が最高かって、自分が頷くとぱっと華やぐこの表情だ。あざといというほど大袈裟ではなく、でも確実に自分がこの笑顔を引き出したのだ、と分かる絶妙な相好。


(あークソ可愛いな)


今度は否定する気も起きなかった。なんかもう疲れた。さっきから彼女の一挙一動に胸を高鳴らせたり苛立ったりするのにも疲れたし、彼女がどこかに行かないよう目を光らせてるのにも疲れた。彼女が自分に与えるものは、ときめきなんて微笑ましいものではない。致命的な一矢が何本も何本も胸に突き刺さってくる獰悪さだ。そんな疲労が表に出ていたのか、セイカは気遣わしげな表情を三途に向ける。


「飲み物買ってくるから、三途くんは座ってて。いろいろ連れまわしちゃって疲れただろうし」
「そんなことは」
「いいからいいから。コーヒーとお茶、どっちがいい?」
「………コーヒー、ブラックで」
「ん、分かった。ちょっと待っててね」


ぐいぐいとベンチに三途を追いやると、セイカはカフェテリアのテイクアウト受付まで走っていく。まあいいか、と三途は腰を下ろし、携帯を開いた。見れば、メールの新着通知が一件。そのアドレスは今朝方登録したばかりのものだった。マイキーからのメール! 急いで着信時刻を確認し、そう時間が経っていないことに安堵する。彼からのメールを気付かず放置するなんてこと、あってはならないのだ。「今どこにいるのか」「問題は起こってないか」まるで警察の尋問のごとく現状を尋ねるメールに、すっぽ抜けかけていた彼女の奇妙な事情を思い出した。本日何度目かの想起。そうだった。彼女は今、誘拐犯(暫定)から逃げてきた逃亡者なのだ。


(落ち着け、落ち着け。普通に返さばいいだけだ)


拝してやまない王と崇める男からのメールに、三途はまず文面で悩んだ。あまりに素っ気ないのも感じが悪いかもしれないし、だからと言ってだらだらと書き連ねるのも女々しくて気持ち悪い。まるで片思い中の人物から来たメールの初返信にはしゃぎまくる女子中学生のように携帯を握りしめ、あーでもないこーでもない、と携帯を弄る。そうしてようやっと出来た文面は自分達が原宿駅の前にいること、問題は起こってないと伝えるだけのシンプルな一文だった。くどいよりはいいだろう。何度も何度も読み返し、数行しかない文面を何十回も推敲し、よし送ろうとボタンに手をかけようとしたところで、見ていた液晶がいきなり暗くなった。どうやら誰かの影が掛かっているらしい。彼女がもう帰ってきたのか、と顔をあげると、そこには目も眩むほど蠱惑的な笑みを浮かべる女が一人、立っていた。またもや身に覚えのある展開。


「ねえ君、一人なの? 誰かと待ち合わせ?」


赤いルージュが似合う美しい女だった。三途の視線が女の顔を捉えたタイミングで、思わせぶりに髪を耳にかけて、小さなピアスを揺らす。ふわりと香る甘い香水の香り。三途を覗きこむように屈んだ胸元はしっかりと寄せられた乳房で押し上げられていて、ナンパ相手としても百点満点を付けざるを得ない。三途の好みからはかけ離れているが、軽く遊ぶ相手としては申し分ない出来栄えだ。もしも今日でなければ、適当に話を合わせて女の誘いに乗っていたかもしれない。


「………ツレがいる」
「あら、そうなの? そのお友達はどこにいるのかしら」
「うるせーな。いいからどっけいけ、年増はお呼びじゃねーんだよ」
「………ふうん」


しっしっ、と手を振りながらメールを送る。よし、送信できた。今の文面だと返信が来るかどうか微妙なところではあるが、返信が来ればすぐに気付けるよう携帯は持ったままにしておこう。そう思っていた矢先、ひょいと横から携帯を攫われる。三途の横柄な反応が気に食わなかったのか、女は三途の隣に腰を下ろすと、自分の香りを移すように身を寄せてきた。


「オイ」
「あなたのツレってあの子のこと?」
「あ?」


ルージュと同じく今にも滴りそうな赤色で塗られた爪先がカフェテリアを指さす。その指先は文字通りすみのすみまで完璧に手入れされていた。あの女の整えただけの爪先とは大違いである。同じ女のはずなのに、何度も自分の裾を引いた爪先とは似ても似つかない。あの、深爪気味の桜貝のような小さな指先。不意に、彼女の手を握ったときに触れた肌の冷たさを思い出した。女が指差す先には、ちょうどドリンクを受け取ってこちらを振り向いたセイカが三途の隣にいる女を見て首を傾げていた。


「まァ随分と可愛らしい子どもじゃない。まるで子犬みたい」
「ンなこたァどうでもいいんだよ。携帯返せ」
「あらぁ怖い。お姉さんの話にちょっとくらい付き合ってくれてもいいんじゃない?」


明らかな嫌がらせに、三途は狂暴な舌打ちを返す。大抵の人間ならばそれだけで震えあがり怯えを植え付けさせるが女はどこ吹く風で、未だに立ち止まっているセイカを面白げに見つめている。女としての完成度は圧倒的に自分の方が上だ、と女は名も知らぬ少女へ見せつけるように三途へとしなだれかかる。あの少女に恨みはないが、自分のことをあろうことか年増などと侮辱した少年への意趣返しに利用させてもらおう。女には三途の動揺が手に取るように分かった。先ほどから言葉面では携帯のことしか言ってないが、全身であの少女の反応を気にしている。遊び慣れている雰囲気のくせに、初心なところが丸見えだ。そんなことを思われているとは露知らず、三途はぼうっと突っ立っているセイカと必死に目を合わせようとしていた。


(あンの女、何ぼさっとしてんだよ………!)


声を掛けるなり寄って来るなりすればいいのに、セイカはこちらを見ているだけで一向に行動を起こさない。怒っている、という雰囲気でもないし、困っている、という様子でもない。と、ようやくセイカの目が三途と合う。それから訳知り顔で頷いたかと思うと、何故かぱくり、と右手に持っていたドリンクのストローを咥えて飲み始めるではないか。いや飲んでる場合か。駄目だ、あの女、助ける気ゼロである。


「あらあら、見捨てられちゃったわね。酷いコ。やっぱり私と遊んだほうが楽しいんじゃない?」
「ソウカモナー」


そもそもこっちはあの女の我儘に付き合ってここまで来たのである。振り回すだけ振り回して、こっちが困ったら放り出しやがって。馬鹿馬鹿しくなってきた。万次郎の命令でなかったら、今すぐにでもほっぽり出してやりたい。


(つーか見ればナンパって分かるだろ。オレが他の女に絡まれててもどうでもいいってか)


携帯を取り返そうと手を伸ばした三途から逃げるように、女が大きく腕を伸ばして携帯を遠ざける。このアマ、ぶん殴ってやろうか。そう思い拳を握りしめた瞬間、ひやりと頬に冷たいものが当たる。びっくりして横を向くと、そこには淡い笑みを浮かべたセイカが立っていた。いつの間に近づいてきたのか、まったく気が付かなかった。セイカは三途の頬に当てたドリンクとは別の方を三途の前に差し出す。


「おまたせ。こっちがコーヒーね」
「お、あ、ありがとうございます」


うっかり地の乱暴な口調が出てきそうになるのを咄嗟に押し留めてドリンクを受け取る。それからセイカは女に目を向けて、また一口ドリンクを飲む。話しかけるでもなく警戒されるでもなく、無言で見つめられたまま妙に空けられた間にナンパの女も流れを掴めず、黙ってセイカを見上げるままだ。


「このお姉さん、三途くんの知り合い?」
「いえまったくの初対面です」


食い気味に答えると、セイカは「そっか」と頷いて、すい、と女の頭上に掲げられた手から携帯を抜き取った。流れるような動き。まるでバレエの振り付けでも見せられているかのような優雅さで女から携帯を奪い返したセイカは、柔らかく目尻を緩めた。


「ごめんなさい、お姉さん。彼、今日は私の付き添いで来てもらってるんです」
「え、あ」


だからまた今度、機会があれば声をかけてあげてください。お姉さんとっても美人だから、彼と並んだらすごい迫力でしたよ。そう笑いながら、セイカは緩く三途の腕に自分の腕を絡める。控えめに引っ張られ、三途が腰をあげれば「さようなら、素敵なルージュのお姉さん」とこれまた敵愾心も競争心も存在しない純朴な笑顔を見せる。女の方はそのあまりにも清々しい態度に気圧されてしまい、「ありがとう」という他なかった。なんだろう、自分の用意した土俵では確実に勝っているはずなのにこの敗北感。セイカはぺこり、と頭を下げるとそのまま三途を引っ張る形で歩き出す。どこに向かっているのかと思えば、そのまま原宿駅の駅内へと入り、ちょうど女の座っているベンチが見えなくなったところでセイカは腕を解いた。


「すごい綺麗なひとだったね。びっくりしたよ」
「………………」
「三途くんモテるね。逆ナンもやっぱりよくあったりする?」
「………………」
「三途くん?」


至極上機嫌でにこにこと笑うセイカとは対照的に、三途は今にも人が殺せそうな目つきの悪さでコーヒーを飲んでいた。何か口に入れておかないと、言葉にしてこの怒りをぶちまけてしまいそうだった。ストローの吸い口を噛みながら、なんとか苛立ちを宥めようと努力する。そもそも、この女相手に我慢などする必要があるのだろうか。いや、彼女の三途に対する好感度が下がることによって、万次郎の三途に対する好感度が下がるなんてことがあれば憤死ものだ。さすがのセイカも無言で前方を睨みつけている三途の不機嫌の原因に心当たりを見つけたのか、あの集会の夜、万次郎にしたように下手に出て三途の機嫌を窺う。あの時と違って、今のセイカには悪びれた様子など一切ないのだが。


「怒ってる?」
「いえ別に」


ものすごく怒ってる、とセイカは三途の眉間に作られたグランドキャニオン並に深い皺を見つめる。美人は何をしても美人だ。怒った顔も綺麗だね、なんて率直な感想を言えば、今度こそ張り手くらい飛んできそうだということはセイカにも理解出来たので、余計なことは言わず真摯に言い訳に努めようとお茶で十分潤した口を開いた。


「ごめんね。もし知り合いなら邪魔しちゃ悪いかなと思ったし、ナンパならナンパで、三途くんがノリ気だったらもうちょっと様子見てみようかと思って」
「見ればオレが嫌がってたって分かったでしょう」
「そうなの? あの女の人、すごい綺麗だったから」
「あんなケバい女の知り合いなんていませんし、ああいうのはタイプじゃないので」
「そうなんだ。三途くんはどんな女の人がタイプなの?」


それはごく自然な会話の流れだったが、セイカの口から出てくると妙な生々しさを持って三途の耳に届いた。足を止めた三途の数歩先で、セイカも振り向いて足を止める。化粧っ気のない薄い瞼が三途の呼吸と同じリズムで瞬く。ボロボロになったストローの吸い口を舌先でなぞり、口元から離す。セイカは三途の答えに興味があるのか、それともただ単に話題を振った側として答えを待っているのか、三途を見つめている。衒いのない眼差し。視線に「うつくしい」なんて形容詞を使う日が来るなんて思わなかった。そう、うつくしい。澄んでいて、涼やかで、無駄がなく、静かな、うつくしい視線。


「そうですね。セイカさんみたいな人がタイプです」


その凪いだ眼差しをどうにか動揺させてみたくて作った咄嗟の言葉は、実に陳腐で気障なものだった。自分で言っておいて鳥肌が立つ。どう考えたって世辞にしか取られない言葉。露骨な虚偽。例えばこれに意味ありげな反応を返すとすれば、よっぽどの初心かこちらに気があるのか、どちらかになるだろう。真に受けて欲しいとは特段思っていないし、言った自分が白々しいと感じるくらいなのだから、あちらもあっさり流すだろう。馬鹿なこと言っちまったな、と怒りで煮えたぎっていた腹から熱が失せていくのを感じていると、セイカが笑った。目を細めて、眩しいものを見るみたいに、ちょっとだけはにかんで。


「ありがとう」
――――は、」


は? なんだその反応、どういう意味だ? なんでちょっと嬉しそうに笑って、いやいや、さっきの言葉のどこに喜ぶ要素があったんだ? 本気だと思われてる? 違う、この女はあんな寒いド三流な口説き文句を真正面から受け取るような女ではないはずだ。それとも自分がそう思っているだけで、実は言葉でもらうのは弱いタイプなのか? あんなにパーソナルスペースが狭いくせにか。嘘だろ。狼狽えさせたくて言ったのに、逆に自分の方が恥ずかしくなっている。穴があったら入りたい、なくても掘って埋まりたい、と考えていた三途の手の中で携帯が揺れる。どうやらメールが来たらしい。三途はこれ幸いにとその返信に食いつき、送り主を称えた。さすがマイキー、タイミングまで完璧です。


セイカさん、マイキーからメールが来てますよ。こっちに合流していいかって」
「今日はもう帰るよ。今から合流すると時間下がっちゃうしね」
「いいんですか? 本当はマイキーと来たかったんでしょう?」
「いいの。三途くんと来られてすごく楽しかったし、いろいろと見られたし、もう十分」
――――本当にいいんですか?」


もう十分、と心底満たされた表情で言うセイカに、嫌な想像が過ぎって問い重ねた。彼女の柔らかな口元を見て、突拍子もない想像が頭を過ぎった。もしも、これから死にゆく人間が最後の願いを叶えてもらえたとしたら、こんな風に笑うのではないだろうか。初めて、彼女の纏う静けさの根底にあるものが透けて見えた気がした。柄でもなくそんなことを考えた三途は、セイカの薄桃色の唇が一度、笑みの形を崩すのを確かに見た。上がっていた口角が緩やかに引き結ばれ、しかし答えは変わらなかった。


「うん。マイキーにもそう伝えておいてくれる?」
「………分かりました」
「あと、今日の夕食は私が作るから、リクエストも聞いてもらってていい?」
セイカさん、料理出来るんですか?」
「オーソドックスなものなら作れるよ」


まあそこそこにね、と答えるセイカは切符の販売機へと並んで財布からお金を取り出す。三途もそっと後ろにつき、メールを打ちながらセイカの挙動を見守る。一度三途の所作を見て切符の買い方は覚えたのか、しばらくボタンの上を行き来していた指先はしっかりと渋谷駅行のボタンを押し沈めていた。お釣りと一緒に出てきた切符を三途に差し出すセイカの顔は、お使いを無事完了させた子供のように輝いていた。


「はい、どうぞ」


薄っぺらい切符を受け取れば、この時間も終わりだ。いきなり押し付けられた女の子守からやっと解放されるのだから、お役御免ともなればもっと喜んだり疲れたり清々しくなったりすると思っていたのに。胸に蟠るのは消化不良の不明瞭な感情ばかりで、すっきりするどころの話ではない。三途は差し出された切符をじっと見つめたまま、なかなか受け取れないでいた。


「三途くん? え、もしかして間違ってた? この切符じゃない?」
「………いえ、合ってますよ。有難うございます」


機械から吐き出されたばかりの切符を受け取れば、セイカはほっとしたように肩を撫でおろした。それから二人は電車に乗り、今度は座席に座って数時間前とは逆方向に進んでいく。セイカは行きと同じくずっと窓の外を見ていたが、最初のように三途にあれこれと訊くようなことはなかった。三途も特に話したいことはなかったので、何も言わない彼女の隣で吊り広告を読みながら車両アナウンスに耳を傾けていた。数分の移動はあっという間に終わり、今度ははぐれることなく構内を出られた二人は、ぶらぶらと歩きながら手に持ったドリンクを飲み干す。途中、公園に寄って空っぽになった紙コップを捨てれば、そのタイミングでまた携帯が震えた。


「オムライス」
「え?」
「マイキーからのリクエストです」
「オムライスかー。三途くん、ちょっと本屋さん寄ってもいい?」
「本屋ですか?」
「オムライスのレシピ調べてくる」
「料理出来るって言ってましたよね、さっき」
「出来るとは言ったけど、レシピなしで作れるとは言ってないよ」


オムライスとか作ったことないし、と言うセイカに、三途は溜息を吐いて携帯で検索サイトを開く。それからまたふらふらと一人で本屋を探そうとするセイカの首襟を引っ張りステイさせ、眼前にずいと携帯を突き付けた。そこには、レシピサイトから引用されたオムライスの作り方が表示されている。


「はい。調べたので、今覚えてください」
「今!? え、これを今すぐ覚えるの?」
「簡単なレシピですし、セイカさんなら出来ますよ」


だから早く読め、と押し付けられる携帯を手に取って、セイカはじっくりとレシピに目を通し始める。よほど集中しているのか、眉間には皺が寄り、肩は丸まり猫背になっていた。三途はさりげなくセイカの手首を掴んですれ違いざまにぶつかりそうになっていた人の波から遠ざける。そうすれば、セイカは大人しく引っ張られるまま三途の横へとぴったりとくっついてきた。とん、と触れた肩の位置は思ったよりも高くて、そういやヒール履いてたなこいつ、と今更のように思う。


セイカさん、材料どうしますか?」
「一応買っていこうかな。マイキーの家の冷蔵庫、中身知らないし」
「普通のスーパーでいいですか?」
「三途くんにお任せしていい?」
「分かりました」


触れた腕の布地から伝わってくる彼女の体温から逃げるように歩き始める。彼女を見れば、かこかこと画面をスクロールして、ぶつぶつとレシピを復唱していた。今日見た中で一番真面目で真剣な表情だ。彼女はオムライスのレシピを覚えるのに夢中で、行きのときのように周りの様子に目を向けることはない。覚えたよ、と畳まれた携帯が三途に返されたのはちょうど近くのスーパーの駐車場に入ったときだった。




2023.09.16