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翌朝、起きたのはセイカが最後だった。残念なことに、セイカの寝起きはあまりよろしい方ではないのだ。セイカが目を覚ましたとき、すでに万次郎は朝食に手をつけていて、エマに至っては化粧までばっちりしていた。何やらエマも気合が入っている様子で、エマも出かける用事があるのだろうか、と首を傾げながらセイカも遅れて朝食の席に着く。


「ね、セイカちゃん。ウチ、髪おかしくない? 寝ぐせとか大丈夫?」
「うん、可愛く出来てるよ」
「よし!」


万次郎と入れ替わるように食事に手をつけたセイカの後ろから「おーいマイキー」と呼ぶ声が聞こえる。その声は昨日聞いた声だ。と、それに万次郎が反応するよりも早く、セイカの斜め前に座っていたエマの背筋がピンと伸びて、しきりに前髪を気にし始める。それから立って服の皺を伸ばし、ウエストの位置を調整し、手鏡で口元をチェックする。その仕草を見て、セイカは察した。決して恋愛方面に敏い方ではないが、似たような反応をする女の子を何度も見たことがある。


(そっか。エマちゃんが昨日お風呂で話してくれた好きな人って、ドラケン君のことだったのか)


万次郎を迎えに来たのであろうドラケンを縁側まで出迎えに行くときの表情と言ったら、まさに恋する乙女。喜びと緊張の入り混じった表情。煌めく蜜色の初々しさ。自分には縁遠い感情ではあるが、目の当たりにしてしまうと思わずきゅんとしてしまう。恋する女の子はいつだって万国共通にカワイイのだ。


「あ、セイカちゃん。お迎えの人来てるよ」
「えっ」


縁側から戻ってきたエマの言葉に、セイカはまだ口に入れたばかりの漬物を碌に噛まぬまま飲み込み、時計を見る。まだ約束の時間までは余裕があるが、待たせるのも悪い。セイカは慌てて朝ご飯をかきこみ、エマに「ごちそうさま!」と告げると走って客間まで戻る。昨日セイカが着ていた服はエマが洗濯してくれていたので、エマが貸してくれた寝巻を脱いで、着慣れたブラウスへと腕を通す。


セイカちゃんもどっか行くの?」
「うん、迎えに来てくれた人とちょっと新宿とか見てくる」
「えっ、デート!? 言ってくれれば化粧道具とか貸したのに」
「デートじゃないから大丈夫だよ、ありがとね!」


今日は梅雨には珍しく天気が良くなるとのことだったので髪をまとめたかったが、そんな時間もなさそうだ。セイカは服だけ着替えると、居間のテーブルに置きっぱなしだった現金入り封筒を確認し、ポケットに突っ込む。玄関から縁側に回れば、すでにドラケンと万次郎は出発した後らしい。いたのはセイカの案内役に抜擢されてしまった三途一人だけだった。


「三途くん!」
「………おはようございます、セイカさん」
「うん、おはよう。ごめんね、待たせちゃって」
「いえ、オレが早く来てしまっただけなので。なら行きましょうか」


にこり、と笑った三途の後を追うセイカの背中に、エマの声が掛かる。「いってらっしゃーい!」その言葉に不意に胸を締め付けられて、後ろを振り向き手を振る。縁側から身を乗り出して笑顔で見送るエマに、セイカもまた「いってきます」と答えて三途の横に並ぶ。にこにこと機嫌良さそうに笑うセイカとは対照的に、三途の表情はすでに疲れ切ったものになっていた。


(なんでオレがこんな女の世話をしなくちゃいけねーんだよ………)


遠足前の小学生とはかけ離れた陰鬱な気分であったのに、昨日は上手く眠れなかった。うとうととしては目を覚まして、眠ろうと目を瞑れば、万次郎に怯えて自分へ縋ってきた女の手の白さが瞼の裏にちらついて、また眠れなくなる。そんなことを繰り返しているといつの間にか朝になっていた。あんなに朝日が鬱陶しいと思ったのは生まれて初めてだ。頭蓋骨が鉛になったかのような重さから気を逸らすため、三途はつい先程のやり取りを思い返す。


「三途。お前に頼みがあるんだけど」
「頼み、ですか?」
「うん、そう。勝手に一人でふらふらどっか行かないように、あいつのこと見張っといて」
「分かりました」
「何かあったら、俺のケータイにメールなり電話なりしてくれればいいから。――――あと」
「あと?」
「もし、あいつに近づいてくる銀髪の男がいたら………。いや、なんでもねぇ。悪いな」


万次郎にしては歯切れの悪い言葉に「お任せください」と頷いたのが約20分前の出来事だ。王からの命令とあらば守らないわけにはいかない。そう、これは命令で、自分は万次郎直々に選ばれたのだ。そう思えば、多少は気も晴れた。


「三途くん、電車で新宿までどのくらいかかるの?」
「10分もかかりませんよ。ここから渋谷駅までは少し歩きますけど。バイクとかの方が良かったですか?」
「ううん、大丈夫。いろいろ歩いて思い出したかったし」


セイカはそう言いながら、しきりに周りを見渡しながら歩く。その所為で三途の歩く速さはいつもより遅くなってしまっているが、珍しくあまり苛立ちはしなかった。きょろきょろと、まるで初めて来た異国の地を見るかのようなセイカの落ち着きのなさに、そういや誘拐されたとか言ってたな、と昨日の話を思い出す。彼女からしてみれば、数年ぶりの帰郷というわけだ。


(誘拐されて、戻ってきて、なのにサツにも行かない。どういう事情がありゃあ、そんなことになるんだ?)


だが、そんなことは三途が考えても詮無いことである。彼女の事情など知る必要はないし、彼女のことを理解する必要もない。自分はただの案内兼監視役だ。万次郎が何を心配しているのかは掴みかねるが、言われた通り彼女が迷子にならないよう一緒に行動すればいいだけのこと。ああ、そうだ。最初に新宿のどこに行きたいか、何が目的で足が伸ばすのかくらいは訊いておいた方がいいかもしれない。


セイカさん、今日は」


どこに、と尋ねながら横を振り向く。が、そこには電柱と家の壁しかない。前を見ても後ろを見ても、ついさっきまで横を歩いていたセイカの姿はない。嘘だろ、いきなりいなくなりやがったあの女。どこ行きやがった。つーか気配なさすぎだろ! と急いで来た道を戻ろうと踵を返すと同時に、向こうの曲がり角からひょこりと女が顔を覗かせた。ぱっと表情を明るくして駆け寄ってくる姿に、込み上げてきた怒りが安堵でどっと塗り潰される。


「いたいた、三途くん。気付いたらいなくなっちゃっててびっくりしたよ」
「いえ、いなくなったのは貴女の方でしょう」
「ごめんね。懐かしいお店を見つけたから、つい足が止まっちゃって」
「お願いですから、気になる店があったときは一言声を掛けてください。傍を離れる時も」
「うん、分かった。お詫びに、この中から好きなのとってっていいよ」


そういって、セイカは白いビニール袋の口を大きく開いて三途へと突き出す。中を覗き込めば、そこにはいろいろな駄菓子が詰め込まれていた。そういえば、ここに来る途中に駄菓子屋があったな、と思い出す。別に腹が減っているわけでも駄菓子が好きなわけでもない。けれど、袋の中に一時期ハマっていた駄菓子のパッケージが見え隠れしているのを見つけて、思わず手を伸ばしてしまう。赤いパッケージのそれを摘まみ上げた三途に、セイカは「美味しいよね、それ」と笑ってみせた。お嬢様然とした上品な装いに駄菓子の組み合わせはなんだかちぐはぐで、しかしセイカは慣れた様子で駄菓子を選んで、ぱくりと一つ口に含む。やたらと歩き食いが板についている。


「あそこのお店、マイキーと一緒に行ってたの」
「そうなんですか」
「うん。もう潰れていると思ってたけど、残ってたみたい。嬉しいよ」


たかが駄菓子の店が残っていただけなのに、そのことをセイカが穏やかな顔で、けれど噛みしめるように嬉しい、だなんていうものだから、三途も「良かったですね」だなんて声を掛けてしまった。そうすれば、セイカはまた駄菓子の麦チョコを食べながら、うん、と頷いた。三途はそんなセイカの声を聞きながら、手に取った駄菓子をポケットに押し込める。別にマナーの悪さを気にするような神経は持ち合わせていないが、今は食べる気になれなかった。そのあとも、セイカは時には立ち止まり、時には駆け足になり、自分の記憶のピースを拾い集めるように、駅までの道のりを冒険する。


「ね、三途くん」
「あそこ行っていい? 三途くん」
「あの、三途くん」
「あ! 三途くん」
「三途くん」


三途くん、さんずくん。終いには名前を呼ぶのも億劫になったのか、三途の横から離れるときはくい、と裾を引っ張って「いい?」と行きたい場所を指さしながら首を傾げるほどになっていた。距離の縮め方がえぐい。しかし慣れ慣れしいと嫌悪が湧くほどベタベタしてくるわけではないし、むしろちょんと裾やら腕の辺りを引っ張る控えめさは非常に三途好みであった。「あそこですか?」「いいですよ」と許可を出す度に嬉しそうに目を細めるのも、なかなかに可愛い。顔立ちは良い方だと思う。けれど、総合点で言えば圧倒的に三途の方に軍配が上がるだろう。自分で言うのもなんだが、顔には自信があるのだ。見目の造りで言えば、彼女は中の上。学年のアイドルとして騒がれることはなくとも、クラスで一、二を争えるくらいには整っている。その程度だ。けれど、気が付くと目が彼女を追っているのはどうしてなのか。


(あァ、そうか。表情が違うんだな)


決してテンションが高かったり、リアクションが大きいわけではない。けれど、彼女が表情を浮かべたとき、そこに彼女の感情がありありと透けて見える。喜び、驚き、切なさ、困惑。その彩度が鮮やかで、分かりやすい感情表現が目を惹く。子犬を相手にしている感覚に近いのかもしれない。その明け透けさは時に眩し過ぎてうざったく感じられることも多い(特に三途のような猫かぶりが得意な捻くれた性根の人間にとっては)が、セイカのそれは、三途の目には好ましく映った。


「うわ、人多いね」
「もうすぐ渋谷駅ですよ」
「あのさ、三途くん。一応電車の乗り方、教えてもらっておいていい?」
「はい?」
「いや、一応。一応ね! 私、ちょっと今まで外国にいてさ、日本の電車には乗り慣れてなくて」


三途の素っ頓狂な声に耐えられなかったのか、セイカはしどろもどろに弁明し始める。だが、その半分も三途は聞いていなかった。最初に飛び込んできた「海外にいた」という情報に何故か自分でも驚くほどの衝撃を受ける。海外? 誘拐されて今まで海外にいた? 人身売買か何かか? 本人は逃げてきた、と言っていたが、思ったよりこの少女が背負っている事情はヤバいのではないのだろうか。


「国によってはいろいろルールとかあるだろうし、そこの辺りを教えてもらいたいんだけど。………三途くん?」
「えっ、あ、ああ、そうですね。まあ、その辺りはオレがその都度フォローするので」
「そっか。変なことしてたらすぐに教えてね」
「はい」
「あ、ところで、切符の機械ってこのお札使える?」


そう言ってセイカはポケットから出し抜けに封筒を取り出したかと思うと、ひょいと逆さにしてみせる。封もなにもされていない封筒から出てきたのは、何十枚もの万札だ。ぱっと見おそらく50万以上はあった。その光景に、セイカの横を通り過ぎた男がぎょっとした目を向けていて、三途は咄嗟にセイカの両手ごと一万円札を封筒の中に押し込める。オイオイオイ、こんな人混みで大金を見せびらかすヤツがあるか。


「三途くん?」
「………切符はオレがまとめて買うので。セイカさん、それはあまり人前では出さないように」
「分かった」
「あと、新宿についたらまず財布を買いましょう」
「私は別にこのままでもいいけど」
「買いましょう」


レジに並ぶたびに、封筒の中からぎっしり詰まっている一万円札を取り出すつもりか。そんな悪目立つすることなどさせてたまるか。ロクでもない連中に目を付けられなどしてみろ、こっちの面倒が増える。ぎゅう、と封筒の上からセイカの手を握りしめにっこりと微笑む三途の圧力をセイカも感じ取ったのか「ハイ」と一つ頷く。まずは一つ目の予定、確定だ。と、三途はセイカの手が冷たいことに気付いて、ようやく自分が力強くセイカの手を掴んでいることに思い至った。途端、その肌の滑らかさと少しだけ伸びた爪の食い込む感覚に、ざわりと腹の奥がざわめく。


「す、みません。痛かったですか?」
「ううん、大丈夫。三途くん、手あったかいね」
「……………セイカさんは、冷たいですね、手」
「そうかな?」


くしゃくしゃになった封筒を丁寧にポケットに仕舞ったセイカの微笑む様に、三途の腹の奥に沸き立ったざわめきが更に強くなる。その感覚から目を逸らすように、三途はセイカに背を向けて人混みの中を歩いていく。セイカも雑踏は歩き慣れているのか、器用に人の波を避けて三途を追ってくる。セイカがちゃんとついてきているのを肩越しに確認して、切符販売機を目指す。手早く硬貨を投入して、切符を二枚分買う。追いついたセイカは三途が切符を買う様子を物珍しそうに見つめていて、自分の一挙一動に注目されているというのが妙に気恥ずかしかった。注目されることなど慣れていて、人の視線に動揺するほど自分も細い神経などしていないはずなのに。


「オレが先に通るので、同じようにして通ってきてください」
「うん、分かった」


買った切符をセイカに渡せば「これが日本の切符」と表を見て裏を見て、光に翳してとまじまじに見ている。なんだか幼稚園児の引率をしているみたいだな、と思いながら、人の流れに沿って改札を通る。一瞬、自分の後ろで改札がエラー音を出すのではないかとひやひやしたが、セイカはきちんと切符を改札に押し込み、飛び出した切符も回収していた。ちょうどホームに滑り込んできた電車に乗れば、やはり土日ということもあってそこそこに混んでいる。すぐに降りるからと二人は奥へと進まず、出入口に寄りかかりながら外を見る。


「三途くん、あれはなに?」
「代々木公園ですね」
「あ、知ってる。前に家族で行ったよ。向こうのは?」
「明治神宮です」
「神社かぁ。三途くんは行ったことある?」
「さあ、どうでしょうね」


渋谷から新宿に行くまでの間、セイカはひたすら窓の外を指さしながら「あれは?」「あっちは?」と三途に質問する。三途も律儀に質問に答え、けれど三途自身について問われた質問はすべてはぐらかした。セイカも特に興味がないのか、三途が適当に答えても「そっか」「ふーん」と気のない返事を寄越すので、それはそれでムカついた。会話のトーンは控えめだったのでそこまで目立つことはなかったが、すぐ横の座席に座る老婆がやたら微笑ましい眼差しで見てくるものだから、三途としては非常に居心地が悪かった。ヤメロ、そんな目で見ンなぶん殴るぞ。


「次で降りますよ」
「え、もう? もうちょっと乗ってたいな」


ガキかあんたは、という言葉をぐっと飲み込んで「帰りも乗れますから」なんて言えば「帰りは私が切符買うね」と上機嫌に言われる。一体今までどんな生活をしてくれば、切符を買うだけでこんなに楽し気に出来るのだろうか。やはりこの少女は自分が思ったよりも悲惨で不憫な生活を送ってきたのかもしれない。だが、今いちそういう背景を想像できないのは、やはり彼女の快活さと身なりの良さの所為だろう。別にやせ細っているわけでもないし、身体のどこかを損なっているわけでもない。むしろ、そこらの人間より上等な生活をしているようにも見える。人の流れに沿うように電車を降りて、ホームを出ればその先に広がっていたのは、迷宮として名高い新宿駅だ。


「本当だ。出口がいろいろいっぱいある」
セイカさんは行きたい場所とかあるんですか?」
「行きたい場所………」
「ないんですか?」
「えーと、あ、あそこ。新宿御苑とか行ってみたいな」
「ならあっち側から出ましょう」


新宿御苑なら駅から徒歩10分ほどだ。けれど、選ぶ出口によっては遠回りになったり、また駅の中を通らないといけなくなる。出口の表示は幾つか天井からぶら下がる電光掲示板に記されているが、向いている矢印はすべてバラバラで、三途はそのどれにも記されていない反対方向の出口へと行き先を決めた。


「すごいね、三途くん。全部覚えてるの?」
「まあ、大体は」
「へー。一人で来られるとか言ったけど、多分私一人だったら迷子になってたよ」


だろうな、と三途は駅の中で途方に暮れながら、ぐるぐると同じところを回っているセイカを想像する。笑えるかと思ったが、勢い余って、その後知らない男に声を掛けられて道案内される、というシチュエーションまで考えついてむかつきが増したので、シミュレーションを止める。と、構内の喧騒に紛れて「三途くん、三途くん!」と名前を呼ぶ声が聞こえ、何事かと振り返ると人混みに流されているセイカを見つけて、すぐに人の流れを遡る。途中で肩がぶつかり、舌打ちを打たれたので、こっちも見せつけるように舌打ちを打って睨み返せば、目が合った中年の男は三途を見るなりそそくさと逃げていった。


「何してるんですか」
「ごめんね」
「もう少しすれば出られますから」


ほら、と差し出した手に、セイカがきょとんとした顔をする。けれど、それ以上に惚けた顔をしていたのは三途だった。なんだこの手。誰の手だ。オレの手だ。え、なんで? 二人して向かい合って、ちょうど真ん中に差し出された手を不思議そうに見つめる。けれど、三途が我に帰って手を引っ込める先に、セイカが素早くその手を握った。やはり、その手は三途よりも冷たい。まろやかな頬も小さく微笑む唇も淡い桜色を灯しているのに、握られたその手だけが妙に冷たくて、三途は恐る恐る握り返した。強く握りしめようものなら、氷の彫刻のように溶けて砕けてしまうのではないか。そんな馬鹿げた想像が、頭を過ぎった。


「ありがとう、三途くん。転ばないように気を付けるから」


「はい」だったか「気を付けてくださいね」だったか、とりあえず三途は上の空のまま、あやふやに頷いて返事をした。三途はセイカを背に庇うように少しだけ繋いだ右腕を後ろに引いて、身体を斜めにしながら歩いていく。セイカの手は繋いだ三途の温度にすぐ染まって、冷たさは感じなくなる。生温い人の温度が気持ち悪い、なんてマスクの内側で唇を歪めながらも、何故か人混みを抜けてもその手を離すという選択肢は浮かばなかった。






2023.03.22