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「なんでバイク乗れるの?」
「練習したから」
「マイキー、私と同い年だよね?」
「そうだけど?」


何言ってんの? と言わんばかりに振り向いてくる万次郎の顔を、セイカは慌てて片手で前を向くよう押しやる。セイカは渡されたヘルメットを被っているが、万次郎はノーヘルだ。この国を長く離れていたセイカでも、それが法律違反で、警察に見つかれば速攻で捕まる事案だということは理解していた。そもそも、中学生である万次郎がバイクに乗っていること自体アウトなのだが、そこはもう突っ込まない。かくいうセイカもこの国を離れている間、無免許運転の類は一通り犯してしまったので。


「あっぶねぇなぁ。ちゃんと掴まっとけよ」
「それならちゃんと前向いて運転して!」
「はいはい」


バイクで風を切れば、万次郎の髪が頬をくすぐる。見た目の細さに反してがっしりとした質感の腰に両手を回して、身体を寄せ、頬を背中にくっつける。万次郎とセイカはほぼ背の高さが同じなので、肩に寄りかかるようにするには、少しだけ身体を小さく丸めなければならなかった。こうしていると、ずっと昔に彼が自転車の後ろに乗せてくれたことを思い出す。


(二人乗りも練習したもんなぁ)


自転車に乗れるようになったのはセイカが先だった。けれど、より短期間で自転車に乗れるようになったのは万次郎だ。自転車に乗れるようになったのを万次郎に自慢して、その三日後、万次郎が「俺も乗れるし!」と自宅の植木に突っ込んできたことを、今でも鮮明に思い出せる。まだ数年前の思い出。でも、セイカにとっては遥か遠く、何十年も前に過ぎ去った過去のように感じられる。赤信号にややきつめのブレーキがかかる。がくん、と車体が揺れて大きめのヘルメットがずり落ちそうになった。


「おい、寝んなよ」
「寝てないよ」
「どっか寄ってく?」
「ううん。大丈夫」


セイカはそう答えながら、流れていく街並みをぼんやりと見る。どこもかしこも、見たことがあると言えば見たことがあるし、ないと言えばない。確かに自分が住んでいた町なのに、まるで実感が湧かない。きっと、この町を離れてからの時間があまりにも鮮烈で、濃密で、昔の穏やかでささやかだった日常など、押し潰されてしまったのかもしれない。今ではもう、両親の顔も上手く思い出せないのだ。


「はい、とうちゃーく」
「ありがと」
「ヘルメット取るからじっとしてろ」
「自分で出来るよ」
「いーから」


上向いて、と顎に添えられた指先は、バイクを運転していた間、風に晒されていたからか冷たい。以前よりも無骨になった指が手際よく留め具を外し、セイカの頭からヘルメットを取り去る。広がった髪を手櫛で整えつつバイクから降りれば、目の前には懐かしい日本家屋があった。流れる街並みを見ていたときには湧いてこなかった感慨が、じわじわと胸を温かくする。可笑しな話だ。自分の家の跡地を見ても、通っていた小学校を見ても生まれなかった郷愁が、他人の実家を見て滲んでくるなんて。


「何突っ立ってんの。こっち」
「あ、うん。お邪魔します」
「おじーちゃんにはもう会ったんだっけ?」
「うん。なんか、今から出かけるって言ってたけど」
「あー。そういやそんなこと言ってたな。多分今ならエマがいると思うけど」


万次郎の祖父は自治会の旅行でこれから家を空けているのだと言っていた。万次郎の手招きについていくまま、庭を横切り、明かりのついた母屋から切り離されたプレハブ小屋に入っていく万次郎を見て、セイカは首を傾げた。記憶が正しければ、ここは真一郎が使っていた倉庫だったはずだ。セイカも何度か、ここでバイクの整備をしている真一郎に会ったことがある。


セイカ、入って」
「し、失礼します」
「なにそれ、職員室じゃねーんだから」


職員室、なんていかにも学生っぽい言葉が万次郎から出てきたことで、どっと緊張が抜ける。そうだ。彼はかつて自分が「まーくん」と呼んで頼りにした、あの小さいくせに腕っぷしの強い子供と地続きの存在なのだ。彼が不良集団の総長になっても、それは変わらない。そのことをやっと実感出来て、セイカは身体の芯が抜けてしまうような脱力感を覚える。ふらふらとへたりこんで、ああ、自分は、とても遠いところまで来てしまったのだ、と今更渇いた息を吐いた。


「なあセイカ――――ってうお、なんかタコみたいになってんぞオマエ」
「いや、ごめん。なんか力抜けちゃって」
「座るならこっち来たら? なんか飲む? ………うげ、コーラしかねぇ」


備え付けの冷蔵庫を覗き込みながら言う万次郎の言葉に甘え、セイカはソファへと身体を預ける。見た目の割に柔らかいソファにしっかりと体重を預けたセイカは、改めて部屋の中を見た。だいぶ内装は変わっているし、記憶も曖昧になっているのではっきりとは言えないが、微かに匂う染みついたガソリンの匂いや、床に残ったオイルの染みなどがあることを見るに、やはりここは真一郎がバイク整備に使っていた倉庫なのだろう。


「ここ、真一郎さんのバイク倉庫だったよね? 今はマイキーが使ってるの?」
「………ん、まあね」
「そうなんだ。あれ、じゃあ真一郎さんって今はもうこの家にいないの? 一人暮らし?」
「シンイチローは死んだ」
「………え?」


冷え切った部屋に、冷え切った声が落ちる。最初、セイカは万次郎が何を言っているのか分からず、ぽかんとした顔で万次郎を見た。万次郎は冷蔵庫の中を覗き込んだまま動かない。ちらりと見えたその中はほとんど空っぽで、庫内灯が切れかかっているのか、灯りが点いたり消えたりしている。死んだ。しんだ。何度もその単語を繰り返し、四度目でようやく飲み込めたセイカは、万次郎の背中に問いかける。


「い、いつ」
「オマエがいなくなって3年後」
「………なんで?」
「………………」


その沈黙が答えだった。きっと事故や病気ではないのだろう。それ以上訊けるはずもなく、セイカは「そうなんだ」と返すことしかできなかった。死んだ。真一郎が。セイカが万次郎を訪ねて佐野家へ顔を出す度、頭を撫でてくれたのを思い出す。手作りのお菓子を持っていくと、とても喜んで嬉しそうに食べてくれた。髪の色や目の色で他の子どもに揶揄われれば、「こんなに可愛いのになぁ」と髪型のアレンジも教えてくれた。エマの髪をよく結んでやるから得意なんだ、意外だろ? と笑った顔をふと思い出して、息が詰まる。一人っ子のセイカにも、彼は兄のような存在だった。


「ほら」
「あ、ありがと」


渡されたコーラを受け取って、プルタブを引っ掻く。けれど指先に力が入らない。この町を出てから、出来るだけ爪を短くする癖がついている所為もあるだろう。深爪寸前まで切り揃えられた指先では上手くプルタブを持ち上げられず、何度も繰り返しているうちに見かねた万次郎がセイカの手の中からコーラを攫っていった。代わりに万次郎が開けたコーラがそのまま空いたセイカの手の中に差し込まれる。


「ん」
「ありがとう」
「相変わらず缶開けるの下手だな」
「そうかな?」
「うん、そう。そーいうところ、全然変わってない。ちょっと安心した」


隣に座った万次郎の横顔を見て、コーラを飲む。6年ぶりの再会だ。セイカが断絶を感じていたように、万次郎も距離を測りかねていたのかもしれない。それからは何も話さず、缶の中で微かに炭酸が弾ける音を聞きながら、ちびちびと弾ける甘味に舌を遊ばせる。缶の上部が生温くなって、中身が半分ほどまで減ったころ、万次郎が「あ」とセイカを振り向いた。


「何か食う? エマには今日のこと伝えてるから、多分オマエの分もあると思うけど」
「………そういや三日間、なんにも食べてないや」
「はあ!? なんで!」
「いや、日本に帰ってくるまでいろいろあって」
「日本にって、オマエ、海外にいたのかよ。っあ」
「はは、そのくらいなら大丈夫だよ。うん、そうなの。私、今まで海外にいたんだよね」
「嘘だろ………。国際犯罪ってやつじゃん」


愕然と呟く万次郎に、国際犯罪ってそういう意味だっけ? と笑う。とりあえずお腹は空いていたので、お言葉に甘えて少し遅めの夕食を頂くことにした。今は万次郎の部屋として使われているプレハブから母屋へ移動して、台所へ。歩けば軋む床板も、古めかしい引き戸の造りも何も変わっていない。ずんずんと台所へ入っていく万次郎の背中から少しだけ遅れて、セイカもまた台所を覗き込む。変わらない家具の位置。昔は真一郎が立っていた流しには、エプロンをした少女が背を向けて立っている。後ろ姿だけでは分からないけれど、もしかしたら彼女が。


「おーい、エマ」
「あ、やっと帰ってきた! もうっ、お客さん連れてくるならもっとはや、く………」


お椀を持ったまま、エプロンの少女が振り向く。色素の薄い髪は、緩くカーブを描いて少女の可愛らしい顔立ちを更に甘くしている。計算が正しければ彼女はまだ中学生のはずなのに、高校生、いやそれなりの恰好をすれば成人していると言われても納得してしまうかもしれない。少女の幼げな甘さと大人の色気が奇跡的なバランスを保って混じり合っている。一言で言えば、美少女だ。そんな少女の存在に、セイカは考えていた挨拶も吹っ飛ばして「おわ」と間抜けな顔で魅入ってしまう。彼女も彼女の方でセイカに釘付けになっているようで、数秒の沈黙の後、エマの手の中にあった木目のお椀がからんと音を立てて床に落ちた。


「………セイカちゃん?」
「あ、はい。セイカです。久し「うそ!? 本物!? えっ、どうして? なんで? え? どういうことマイキー!」
「エマうるさい」
「説明! え、お客さんってもしかしてセイカちゃんのこと!?」
「言ってなかったっけ?」
「聞いてない! 馬鹿! マイキーの馬鹿! セイカちゃんも馬鹿!」
「えっ飛び火」
「急にいなくなったと思ったら急に帰ってきた~! もーやだぁー!」
「あーあ、セイカがエマ泣ーかした。わーるいんだー」
「私のせい!? ごめん! なんかごめんね!」


そんなこんなで、しばらく台所は泣きながら恨み言を叫ぶエマと、謝罪を繰り返すロボットと化したセイカと、おかずを摘まみ食いしてエマの鉄拳を食らうマイキーによって混乱の様相を呈していた。エマが落ち着いたころにはおかずも冷め始めていて、せっかく作ったのだから温かいうちに食べて、というエマの一言によって、三人は各々席についた。よそわれた白米から立ち上る匂いに、忘れていた食欲が暴徒となって暴れ始まる。やはり白米は日本人のソウルフードなのだ。


「はい、どーぞ」
「これ、エマちゃんが作ったの?」
「うん」
「へえ、すごい。いただきます!」


目の前に並べられたのは、白米に味噌汁、肉じゃがにコロッケ、ほうれん草のお浸し。久しぶりに使う箸の感触もまた懐かしい。手を合わせて、おかずを口に運んでいく。肉じゃがなんて食べたの、いつ振りだろう。自分が作るよりも少しだけ甘さが強いじゃがいもを噛みしめて、相好を崩す。


「おいし………。エマちゃん、料理上手になったね」
「まあね。マイキーは料理しないし」
「マイキー、料理出来ないの?」
「出来ないんじゃなくてしないだけ」
「つまり出来ないってことでは」
「違いますぅ」


向かい側に座った万次郎はすでに白米を半分ほど平らげていて、セイカも三日ぶりの栄養を補うようにコロッケを食べていく。たまにごろりと出てくるじゃがいもの塊が手作り感を演出して、頬が緩む。ふと、万次郎の手が止まっていることに気付いて顔を上げると、まだ半分ほど残っているというのに、箸を置いてこちらを見ている彼と目が合った。頬杖をついて微笑ましそうに見ているその顔があまりにも優しくて、急に恥ずかしくなる。そんなに可笑しな食べ方をしていただろうか。まあ、三日ぶりとあっていつもよりがっついた食べ方にはなっていたかもしれないが。


「な、なに?」
「いや、美味そうにメシ食べるなぁーと思って」
「だってエマちゃんの料理、本当に美味しいからさ」
「えへへ、ありがと」
「うん。いいお嫁さんになるよ」
「そ、そうかな?」


ご機嫌に白米のおかわりを頼むセイカに、エマは照れながら茶碗を受け取った。はにかむエマの可愛らしさに和みながら、肉じゃがをおかずに二杯目の白米を胃の中に収めていく。空腹がある程度埋まってくれば箸のスピードも緩やかになって、会話の余裕が出てくる。


「でも、エマちゃんもよく私のこと覚えてたね。もう忘れられてると思ってた」
「ウチも小っちゃかったから、はっきり覚えてるわけじゃなかったけど。でもほら、写真持ってたから」
「写真?」
「撮っただろ。エマが入学式の日、オレとエマの三人で一緒に」


言われてみればそんな気もする。けれどだいぶ前の話だ。正直覚えていないけれど、ここで正直に「覚えてない」なんて言えば万次郎の機嫌を損ねてしまうだろうな、とセイカは考え、そんな予想を軽々と弾きだす自分に呆れ笑いを浮かべそうになる。何を知ったかぶっているんだか。随分とお互いがいない時間を送ってきた。万次郎だって成長しているだろうし、そんなことでいちいち機嫌を損ねるような子供っぽい真似もしないだろう。そう考え、正直に「そうだっけ」と答えたのだが。


「信じらんねー、覚えてねぇのかよ。あーあ、エマがかわいそう。薄情なヤツ!」


まったくもってそんなことはなく、セイカの予想したとおりに頬を膨らませてむくれるものだから、そういうところはまったく変わってないとセイカも箸を置いて笑ってしまう。思ったよりツボに入ってしまったらしく、口元を覆いながら肩を震わせるセイカに「何笑ってんだよ」とますます万次郎の機嫌が降下していく。


「ううん、マイキーのそういうところ、全然変わってないなーって思って」
「うるせ。………そういうオマエは変わったよ」
「さっきは変わってないって言ってたのに。あ、髪の色とか? 確かに前よりちょっと赤っぽくなったよね」
「それもあるけど、そういうとこじゃなくて」


ハーフの子供が成長に従って髪や目の色を変えるのはよくある話だから、そちらの話かと思ったがそうでもないようで。万次郎はさっきまでの頬を膨らみを萎ませて、もごもごと口の中で言葉を転ばせている。だがあー、だのうーん、だのを何度か繰り返したあと、出てきたのは「アホになった!」などという悪口だったので、セイカは最後のコロッケを咀嚼しながら、テーブルの下で万次郎の脛を一つ蹴り上げた。











「駄目!」
「なんで! 女の子同士だから別にいーじゃん!」
「うちの風呂そんなにデカくないだろ!」
「ウチとセイカちゃんくらいだったら余裕で入れますー!」


食器の片づけも終わり、さて後は風呂に入って寝るだけだ、という話の流れからどういう風に脱線したのか、今セイカの前ではマイキーとエマが言い争いをしていた。セイカの腕の中にはエマが貸してくれた着替え一式が抱えられている。着の身着のまま飛び出してきたセイカは着替えどころか携帯も持っておらず、辛うじてあるのはポケットに突っ込んだ現金入りの封筒のみである。さすがに下着まで貸してもらうのは気が引ける、と思ったのだが「間違えてサイズ違うの買っちゃった」と出してきた新品がセイカのサイズに近かったこともあり、有難く頂くことにした。


「ああもう、マイキー、ちょっと来て!」
「なに? 三人で入るの?」
「そんな訳ないじゃん変態! いいからこっち!」


渋る万次郎に痺れを切らしたのか、エマが万次郎を居間の外へと引っ張っていき、何やら深刻そうな顔で話しかける。そうすれば、万次郎も前面に押し出していた不機嫌さを引っ込めて、真面目な顔でエマの言葉に頷いた。何を話しているのかは分からないが、エマは万次郎の説得に成功したらしい。居間に戻ってきたエマは、セイカの手を取ると、ぐいと引っ張って立たせる。


「これでよし。いこ、セイカちゃん!」
「うん。マイキー、行ってきます」
「ちゃんと帰って来いよ!」
「いやお風呂に行くだけだって」


お風呂に行くだけでこの騒動である。佐野家は本当に楽しいなぁ、と笑いながら、エマに手を引かれるままお風呂へと行く。バサバサと服を脱いでいくセイカに対して、エマは上着を脱いだ時点で動かなくなっている。何か忘れ物でもしたのだろうか、と振り向くと、自分が動作停止していることに気付いたのか「あはは」と誤魔化し笑いでさっさと脱いでいく。中学生とは思えぬスタイルの良さだ。きっと学校ではマドンナ的な存在に違いない。


「こっちがシャンプー。で、こっちがリンス。トリートメント使う?」
「ううん、シャンプーとリンスだけでいいよ」
「だめ! 髪伸ばしてるんなら、ちゃんとお手入れしないと! はい、これ使ってね! ウチのオススメ!」


二人で交互にシャワーを使いながら、身体を洗っていく。その間にもちらちらと横からエマの視線が突き刺さってくるのを感じる。何かを探すような、確認するような、そんな鋭い視線だ。しかし、それも仕方ないだろう。


(やっぱり、いきなり帰ってきて匿ってだなんて、変な話だよね)


エマには食事が終わったあと、万次郎が事情を説明してくれた。普通なら怪しんで当然の話を、エマは万次郎と同じく「分かった」とすんなり受け入れてくれた。懐の広さは佐野家の因子なのかもしれない。髪も身体も洗い終わり、先に湯船に浸かっていたエマの向かい側にお邪魔する。ふう、と溜まりに溜まった疲れを溶かすように息を吐くと「ごめんね、じろじろ見ちゃって」とエマが謝った。小さな声だったが、浴室ではよく響く。


「ちょっと、気になっちゃって」
「なにが?」
「その、………セイカちゃん、誘拐された先で、酷いこととかされてないかなって」
「もしかして、お風呂に誘ってくれたのってそのため?」
「ン………それもある」


立てた膝に顔を埋めながら答えるエマに、セイカは破顔する。なるほど、さっきまでの眼差しはセイカを疑っていたわけではなく、セイカの身体に異常がないかどうか確認していたのだ。痣や傷跡、そういうものがないかどうか見たかったのだろう。(忠告聞いておいてよかったー!)とセイカはかつて目立つ傷跡は消しておいた方がいい、としつこくアドバイスしてきた医者の顔を思い出して、感謝を捧げた。もしも数々の傷跡をそのままに見せていたら、今頃エマはパニック状態になっていたかもしれない。


「マイキーは質問禁止って言ってたけどさ、やっぱり心配じゃん」
「はは、ありがとう。でも大丈夫だよ」
「誘拐されたのに大丈夫って、なんかヘン」
「んー。なんて言えばいいのか………」


そもそも誘拐というニュアンスがすでにずれているのだが、起こった出来事だけを見れば確かに誘拐以外の何物でもないのだから、全否定は出来ない。セイカが幾らそれは違うのだと言っても、根底にある事情をセイカが彼らに話せないのだから、否定も無駄というものである。


「別に無理やり何かをさせられてるってわけじゃないし、私が選んで進んでる道だから、そんなに心配しなくてもいいよ」
「ホントに?」
「本当に」
「………あんまり無茶しないでね」
「うん」
「危ないことも無理なことも駄目だからね」
「ありがとうね、エマちゃん」


最後の言葉は約束することが出来なかったので、感謝の言葉で曖昧に濁す。その誤魔化しは幸いエマには気付かれなかったらしく、その後はセイカがいなかった間の話をしてくれた。真一郎が死んだ夜の話、マイキーが作った東京卍會のこと、乗れなかった自転車に乗れるようになったこと、実は今好きな人がいること。けれど、誰が好きなのか、そこまでは聞き出すことが出来ず、風呂を上がるころには湯がすっかり温くなっていた。


「おまたせー」
「遅ぇ」
「ごめんって」
セイカは?」
「まだ着替えてる。もうちょっとしたら出てくるよ」
「ふーん。………どうだった?」
「綺麗だったよ。大きな怪我とか痣とかはなかった」
「そっか」


エマの報告を受けて、万次郎はほっと胸を撫で下ろした。最初はどうしてエマがそこまでしてセイカと風呂に入りたがるのか分からなかったが、居間から引っ張り出されてエマの考えを聞いたときは「おう、任せた」と頷くしかなかった。とりあえず、酷い扱いを受けている様子はないようだ。もちろん身体が綺麗だというだけで懸念がすべて消えるわけではない。痕が見えないだけで、万次郎が想像してないような仕打ちを受けている可能性だってあるのだ。けれど、セイカが見せる笑顔と態度からは、暴力や恐怖の影は微塵も感じられなかった。それは喜ばしいことのはずなのに、万次郎の心には影を被せるばかりだ。もやもやと、形容しがたい澱みが胃の裏側に溜まっていくような感覚。それを自覚すると、黒い澱みはどろどろと更に重さを増して臓腑の奥へと沁み込んでいく。冷たくて、気持ち悪くて、なのに焼けるような痛みがあって。その沈黙をどう捉えたのか、エマはニマニマとした笑みで万次郎の隣に座った。


「マイキーのエッチ」
「は?」
セイカちゃんのハダカ想像してたんでしょ。サイテー」
「ンなことしてねーし」
「えー、そうなの? でもセイカちゃん、スタイル良かったなぁ。なんていうか、きゅっと引き締まってる感じ? 特に腰から太腿のラインが」
「言わなくていいから! そっちこそ変態じゃん!」
「女の子同士だからノーカンでーす!」
「ちっくしょ、羨ましい………!」
「今羨ましいって言った?」
「言ってない」
「言ってた!」
「言ってない!」
「何してるの、二人とも。また喧嘩?」


着替えが終わったセイカは長い髪を器用にゴムでまとめてあげていて、やや襟ぐりの広いTシャツからは淡く色づいた首筋がよく見えた。ひょっこりと後ろから覗き込んでくるセイカから慌てて目を逸らすが、時すでに遅し。エマの言葉を思い出して、勝手にセイカの服の中身を想像しそうになっている自分の単純さが申し訳なかった。しょうがない、男子中学生なんて所詮はそんなものなのである。


「べっつにー。あ、セイカちゃん。部屋どうする? 一応客間の用意はしたけど」
「客間って、前に使わせてもらったところ?」
「そうそう!」


幼いころ、万次郎に誘われて何度かお泊り会をしたことがあった。その時は寝る部屋として母屋の奥にある客間を宛がわれた。けれど結局、どんな話の流れだったかは分からないが、その日はエマと万次郎とセイカ、三人で一つの布団の中で眠ったのだ。虫食いだらけの記憶を頼りに発言したセイカだったが、どうやら合ってたらしい。


セイカちゃんがお泊りしてたときは、いっつも三人で寝てたもんねー」
「バジと一緒に4人で寝たこともあったよなー」
「ばじ………?」
「いただろ。ほら、黒髪でうちの道場に通ってた」
セイカちゃんはあんまり会ったことないかもね」
「うーん。全然思い出せない」


なんだかそんな子もいたような気がするが、うまく思い出せない。多分、実際に会ったのは一度か二度くらいなのだろう。そこからはやれ運動会の徒競走でセイカが転んで泣いてただの、小学校入学早々エマが意地悪な男の子を張り倒して大変だっただの、万次郎にお礼参りしに来た高校生に一緒に追いかけられるハメになったのがすごく怖かっただの、そんなくだらなくてどうでもいいことばかり、次々と話題に上っていく。セイカはエマと万次郎が次々と掘り返してくる昔話を聞きながら、呟いた。


「いいね、こういうの。昔に戻ったみたい。また三人で寝たり出来たら楽しそう」
「………じゃあ、一緒に寝る?」
「へ?」
「ウチは別にいいよ。マイキーもいいよね?」
「別にいいけど」
「よし、じゃあお布団運んでくるね! あ、その代わりウチが真ん中だから。マイキーがセイカちゃんにヘンなことしないか見張らないといけないし」
「そんなことしねーよ」
「あ、お布団運ぶの手伝うよ」
「ありがと。マイキーはその間にお風呂入ってきなよ」
「分かった」


セイカは立ち上がり、布団の用意をするエマを追いかける。マイキーの部屋であるプレハブから布団を持ってくるのは大変なので、客間に残っていた布団を二つ、エマの部屋まで運ぶ。さすがに昔のように一つの布団に二人や三人一緒に入ることは無理なので、エマの布団を挟むように運んできた布団を並べる。


セイカちゃん、どっちがいい?」
「えっと、じゃあこっちで」
「ならこっちがマイキーね。はい、これ毛布。まだ朝方とかちょっと寒いから」


そういえば、今は梅雨の真っ最中だったか。セイカはエマから薄い毛布を一枚受け取り、布団に寝転がる。背中に感じる畳の固さに慣れず、ごろごろと寝返りを打って身体の位置を調整する。と、同じく寝転がったエマが組んだ腕に頭を乗せながら、ふふ、と笑った。


「あのさ、ご飯のときマイキーがセイカちゃんのこと、昔と変わったって言ってたでしょ?」
「うん、言ってたね」
「あれさ、多分、セイカちゃんがすごく美人になったって言いたかったんだと思うよ」
「そうかな?」
「そうだよ! もう、本当にびっくりしたんだから!」
「むしろ私はエマちゃんの美少女ぶりにびっくりしたんだけど」


本当に可愛くてびっくりした、と神妙な顔で頷くセイカに、エマは「反応うすーい」と唇を尖らせて不満を示す。けれどそれもすぐに引っ込んで、セイカの方へいそいそと寄ってきたかと思うと、身体を起こすよう言って身を寄せてくる。


「一枚写真とっとこ。ツーショット」
「うん、いいよ」
「じゃあ、もうちょっと寄って………。よし、はいチーズ」


頭をこつんとくっつけ合い、エマが構えた携帯のレンズを覗き込む。そういえば、セイカが海の向こうに置いてきた携帯はどうなっただろう。きっと『彼』が回収してくれているはずだ。向こうで出会った仲間にも、一番の理解者である『彼』にも、行先も何も告げず飛び出してきてしまった。心配も迷惑もかけてしまっているであろうことは、十分理解している。けれど、今逃げなければ、きっと自分は駄目になっていた。それはきっと、『彼』も分かってくれているだろう。


「………ね、エマちゃん」
「なぁに?」
「明日、朝起こしてくれる?」
「いいよ、何時?」
「んー、8時くらい………かな」
「りょーかい。そういや、マイキーも8時くらいに起こせって言ってたっけ」


ああ、そうだった。万次郎は明日、品川のチームを潰しにいくと言っていた。喧嘩なんて大丈夫だろうか。怪我をして帰って来なければいいけれど。それはそれとして、明日自分は果たしてちゃんと新宿に行くことは出来るのだろうか。三途という少年が連れて行ってくれるという話だったが、巻き込んでしまって申し訳なかったな、と反省する。お詫びに、明日は全部自分の奢りでいろいろなものを買ってあげよう。そんな計画をつらつらと考えている間にも、身体は重く、瞼はすっかり閉じて動かなくなってしまっている。と、部屋のふすまを開ける音と共に万次郎の声が聞こえてきた。


「あれ、セイカ寝ちゃった?」
「………ううん、まだ起きてる。けどすごく眠い」
「うわぁ、またそのタオル持ってきてる」
「いいじゃん別に」
「はいはい、戸締り全部してきた?」
「してきた」
「じゃあ、マイキーはこっちの布団ね。電気消すよ?」
「うん」


すでに半分夢の世界に入っているセイカも頷き、部屋の電気が落とされる。毛布をお腹にかけて枕に顔を埋めれば、押し入れの匂いがした。防虫剤と、ちょっとだけ残るカビくささと、イ草の匂い。エマが寝転がった気配がして、布団の上に投げ出した右手に温かさを感じる。うっすらと目を開けると、エマの手が上からそっと包むように、セイカの右手に触れていた。向かい合わせに目を閉じるエマの向こうに、万次郎の身体が覗いて見える。


(そうだった。昔は私が真ん中だったんだ)


今までは思い出せなかった昔の情景が、シャボン玉のように浮かんで弾ける。そうだ。自分は幼いころ、確かにここで生まれ、育ち、彼らと過ごしたのだ。例え、そのことがとても遠く、他人事のようにしか感じられない色抜けた思い出だとしても。それは紛うことなく、自分が得た一つの幸せだった。セイカはゆっくりと目を閉じると、次第に呼吸を深くして眠りへと落ちていった。





2023.03.17