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その日は風が強かった。


せっかく咲いた桜の花を叩き落とすような風だった。桜並木を通るたびに薄いピンク色の花びらが紙吹雪みたいに散っていく。それを同じクラスの女子たちはキレイキレイと騒いでいたけれど、自分はちっともそう思わなかった。そう言うと、シンイチローは「お前に風情はまだ早いかぁ」と笑ったので一つ蹴りを入れてやった。フゼーってやつは分からないが、シンイチローが自分を馬鹿にしたことは分かった。


「どこ行くんだ?」
セイカんとこ行ってくる!」
「夕食までには帰ってこいよー」


部屋にそのままランドセルを放り投げ、シンイチローの言葉に手だけ振り返して走り出す。同じ学校に通っているけど、アイツの家はちょっと遠い。それでも近道によその家の庭を勝手に横切ったり、塀を乗り越えたりすれば15分もしないうちに着く。だから今日もいつも通り。今日は習い事や塾の日じゃないし、委員会の日でもない。遊びに行くとは伝えてないけど、何もない日は大抵真っすぐ帰って家にいるから、チャイムを鳴らせばすぐ出てくるはずだ。今日はどこに連れて行ってやろうか。そうだ、前に食いたがってた駄菓子を一緒に買いに行こうか。それともまた土手に行って喧嘩の仕方でも教えてやるか。そんなことを考えながら走っていると、べしりと顔に木の枝が当たった。


「いってぇ」


道路のガードレールを乗り越えようとして、桜の枝におでこをぶつけてしまったらしい。こんなに風が強いのに、まだ咲ききっていないからなのか、その枝には桜の花がたくさんついていた。ふわふわと揺れる桜の蕾はたんぽぽの綿毛みたいだ。


(そういやアイツ、花とか好きだったな)


お土産に持っていってやろうか、と枝に手を伸ばして、ばきりと一本へし折る。するとタイミングの悪いことに、近所で口うるさいと評判のじいさんが通りがかって「こりゃあ! 桜の木がかわいそうじゃろがい!」と杖を振り回してきたので、慌てて道路を渡って逃げる。あのじいさんうるさいんだよなぁ。立ちションするなとか歩道は横に並んで歩くなとか。それから手の中に桜の枝を持ったまま走って、最後に短い橋を渡って真っすぐ走れはすぐアイツの家だ。自然と走るのも速くなって、けれど、思ったよりも早くアイツの姿を見つけたオレはすぐ足を止めた。チンケな遊具しか置いてないショボい公園。そのなかにアイツはいた。アイツと、もう一人。


その日は風が強くって。
公園の桜はパラパラ散っていて。


「―――――魔法使いだ」


その桜の吹雪に隠れるみたいに、魔法使いが一人、立っていた。


思わず声に出して、ガキみてーなことを言ってしまったと口を手で覆った。きょろきょろと周りを見渡して、誰もいないことにほっとする。でも、思わず声にしてしまうくらい、そいつはセイカがこの間読み聞かせてくれた本に出てきた魔法使いにそっくりだったのだ。真っ白な髪。真っ黒な服。ここからでは女か男か分からない。でも背が高いから男かも。のっぺりとした影を見上げるように、セイカは立っていた。アイツは困ったような顔をしながら、魔法使いと話している。アイツが何かを言うと、魔法使いは頷きながらしゃがんで、アイツの頭に手を伸ばす。あ、だめ。


セイカ!」


ざわざわした。何かこれから、とてもイヤなことが起こるような、そんな予感。喧嘩のときに感じる『さっき』とはまた違う、心臓がぞわぞわする感じ。名前を呼ぶと、アイツは驚いた顔で振り返ってオレを見た。魔法使いもオレを見て、はっきりとは見えなかったけど、やっぱり男だったんだと分かった。誰だ、あの男。そういや、学校でフシンシャが良く出るって言ってたけど、もしかしてあの男はそのフシンシャなのだろうか。だったらセイカが危ない、とオレは公園に入ろうとしたけど、その前にセイカがこちらに走ってきた。


「まーくん!」
「マイキーって呼べって! じゃなくて、お前、こんなとこで何してるの? アイツ誰? 悪いヤツ?」


悪いヤツだったらオレがセイカを守ってやんねーと。けれど、走ってきたセイカはすごい勢いで首を振りながら「違うよ、知ってる人!」と言った。桜の下に立っていた所為で、セイカの髪にはたくさんの桜の花びらがついている。それを払ってやろうと思って頭に触ると、髪がぐしゃぐしゃになってしまった。いつもなら「まーくんってほんと乱暴!」って怒るはずなのに、その日のセイカは何も言わず、ランドセルの肩ひもをぎゅうと握ったままだった。あの男も花びらを取ってやろうとしたのだろうか。ちらりと公園の中を見ると、男は立ったまま、こちらをじっと見ている。それがなんだか嫌なカンジで、セイカの方を見ると、セイカは顔を顰めて口をへの字に曲げていた。


「わりぃ、痛かったか?」
「ううん、大丈夫」
「なら、なんでそんな顔してんだよ。ハラでも壊したか? 今日、お前が食いたがってた駄菓子、一緒に食いに行こうと思ってたんだけど」
「………ごめんね、まーくん。私、今日はちょっと用事があって。一緒に行けないの」
「そーなの? 今日、塾はねーだろ?」
「うん、塾じゃないの。ただ、ちょっと遠いところに行くから、しばらく会えないかもしれなくて」
「は? なんだよそれ?」


そんな話聞いてない。どっかに行くときは必ずオレに教えろって言ってんのに。セイカもオレの機嫌が悪くなったことに気付いたのか、しょんぼりしながら「ごめんね」と爪先をもじもじとさせながら謝る。


「しばらくってどのくらい」
「えっと、用事が終わるまで」
「だから、どのくらいで終わんのってきいてんの」
「えーっと、はっきりとは、わかんないん、だけど」
「なんの用事なの。遠くって? 転校するってこと?」
「あ、いや、転校はしない、けど」
「あーもう! はっきりしろよ!」
「だからごめんってば!」


イライラして声を大きくしたオレに、セイカも大声で謝る。「とにかく!」セイカは叫ぶと、ぎゅうとオレに抱き着いてきた。いきなりのことでガチリと身体が固まってしまう。ぎゅうぎゅうと抱きしめてくる強さも、いっつも年上とケンカをしているオレからしてみれば苦しくともなんともないはずなのに、まるで身体中を縄でぐるぐる巻きにされたみたいに動かなくなる。え、なに、なんだこれ、どーすればいいんだオレ? 確かなんかドラマで似たようなシーンがあったな。


(あの時は抱きついてきた女を男が抱きしめ返してたっけ)


シンイチローが見ているのをラジオ代わりに聞いていただけだから、内容なんてまったく覚えてないけど、なんかそう、そんな感じだった気がする。オレもそれを真似しようと、ぎくしゃくと動く腕を伸ばしてセイカの腰に回そうとしたけど、その前にセイカが離れた。抱きついてきたのと同じくらいのスピードで離れていく。ふわふわと揺れる髪は赤みがかった茶色で、コイツが日本人と外国人のハーフである証拠だ。そういえば、初めてコイツに会ったのは、コイツがこの髪の色の所為でいじめられてるときだったな、と思い出した。くだらねーことしてるな、と思いつつ、なんとなく気が向いて助けようと思ったが、オレが手を出す前にセイカが一番ガタイのいい男を突き飛ばし、更には平手打ちまで交わしていた。そこからはもう大乱闘。途中でオレも参戦して、もちろんオレとセイカの圧勝だった。ほとんとはオレがやったんだけど。


(なんでそんなこと、今思い出してるんだろ、オレ)


心臓のざわざわが止まらない。むしろさっきよりも大きくなってる。魔法使いの男は相変わらずこっちをじっと見たまま動かない。いや、セイカを見たまま、動かない。ダメだ、だめだ、なんかよく分からないけど、このままじゃダメな気がする。オレは持っていた桜の枝をその場に放り捨てて、セイカの肩を掴む。でもセイカはオレの焦りなんか知らないで、大きな目でしっかりオレを見て言った。


「絶対に戻ってくるから!」
「だからいつ戻ってくるんだよ!」
「わ、分かんないけど! 絶対戻って来るって!」
「明日!? 明後日!?」
「そんなに早くはむり!」
「ならダメだ! ぜってーダメ! 行くな!」


もうお互い大声で叫びまくるもんだから、耳が痛いったらしょうがない。だいたい、いきなり用事があるからしばらく会えねーとか意味分かんないだよ。いつ戻ってくるか分かんねーところになんて行く必要ないじゃん。オマエがいなくなったら、誰がオレに勉強教えてくれんだよ。いやまあ、真面目に話聞いたこともなかったけど。セイカはダメだと叫んだオレの口を両手でぎゅむりと塞いで、こちらを睨みつけた。こいつがガンつけたところで怖くともなんともないけど、ぐっと喉が詰まる。


セイカ


魔法使いの男が名前を呼ぶ。男らしい、低くて優しそうな声。こんなに距離があるのに、その声は隣に立って呼んだみたいにはっきり聞こえた。その声に驚いて、思わずセイカの肩を掴んでいる力を緩めてしまう。綺麗なのに、気味の悪い声。この瞬間のことを、オレはきっと永遠に忘れない。セイカはくるりと方向転換して、その男の方へと走っていってしまった。駄目だ、追わなくちゃ、連れていかれる、追いかけなくちゃ。だけど身体が動かない。足が石になったみたいに、オレは馬鹿みたいに立っていることしかできない。魔法使いの男がセイカに手を伸ばす。セイカは駆け寄って、迷うことなくその手を取った。もしもあの男の手を取る前に、ちょっとだけでも振り向いてくれたなら。オレの身体は動いて、アイツを引き留められたかもしれないのに。


「マイキー!」


初めて使われたその呼び名に、はっと顔を上げる。彼女は公園の向こう側にいた。男と手を繋いだまま、ランドセルを背負って、大きく元気よく手を振って。


「ぜったい、もどってくるからねー!」


また明日学校でね。いつもそう言って別れるときみたいに、手を振って、セイカは行ってしまった。絶対、戻ってくるから。で、その先は? だからなに? 「待っててね」も「忘れないで」もなかった。どうすればいいんだよ。オレだけが宙ぶらりんに取り残されている気分。また風が吹いて、桜の花びらがごうごうと舞い散る。あまりの風の強さに目を瞑って、また開いたとき、すでに二人の姿はなかった。


(ま、まあ、あんなこと言ってたけど、すぐ帰って来るだろ)


きっと家の用事とか、そんなんだ。親戚が死にそうになってるとか、家族で旅行に行くとか。どうしても外せない用事があって、ちょっと遠くに行くだけの話。だから大丈夫。転校するわけじゃないって言ってたし、ほら、アイツも絶対戻ってくるって言ってたし。


「うん、うん、そうだよな」


相変わらず心臓のざわざわは収まらないけれど、そうだ、アイツが帰ってきたときに備えて、今日買いに行こうと思ってた駄菓子を買っておいてやろう。きっとアイツは喜ぶはずだ。お返しにオレは何してもらおうか。宿題を代わりにやってもらおうか。それともゴールデンウィーク、オレの家に泊まりに来てよって誘ってみようか。新しいゲームも買って、シンイチローも誘って、三人で夜更かしして騒ぐのも楽しいかもしれない。エマもセイカには懐いてるから、きっと喜ぶ。そんな計画を頭のなかで組み立てて、オレは公園を通り過ぎて駄菓子屋に向かう。心臓のざわざわは、全力疾走の苦しさでいつの間にか消えていた。だから、ああ何事もなかったんだと、心配する必要なんてなかったんだと、そう安心して。


二日後、セイカの捜索願が出された。





2023.03.04