ぼくらまだそれをゆめでしかしらないから






「あ、ねえさーん!」


世界は広い。この広大な大地にあって、その手の届かぬ場所はないと言わしめる人脈を持っているといっても、自分を姉と呼ぶのはどこを探してもたった一人だろう。いつものようにロドスに医療品を納入して帰ろうとしていた間際、背中にかかった声に、セイカは思わず居心地の悪さを感じてしまう。赤の他人にそんな呼称を向けられる日が来るなど、考えたこともなかった。けれどこの居心地の悪さを感じることにもこの頃ようやっと慣れてきたところだ。セイカはそれをすぐに揉み消して、殊更穏やかさを強調した笑みで近づいてくる駆け足に振り返った。


「お久しぶりです、クリフハートさん」
「うん、久しぶり! 元気だった?」


そう笑顔で話しかけてくるのは、シルバーアッシュの実妹であるクリフハートだった。明るい笑顔にしやなかな身体、フェリーンの尻尾は今日も色艶よく元気に揺れている。登山家らしいポジティブな突撃力には時々辟易してしまうこともあるが、そのエネルギーは素直に見習いたいと思う。


「あの、クリフハートさん」
「んもう、そんな他人行儀な呼び方やめてって言ってるのに! もう家族みたいなものなんだし」
「いえ、そんなことは」


ないのだけれど、と続こうとした言葉は「いいのいいの!」と両肩を叩くクリフハートに見事切って捨てられた。彼女は自分のどこをそんなに気に入ったのか、今でもよく分からない。初めて会ったときから好意的ではあったものの、こんな風に積極的に関わってくるような娘でもなかった気がしたのだが。今では、人目も憚らず自分を『姉』と呼び、姿を見れば声を掛けてくる。正直もう少し自重して欲しいというのが本音だったが、それを伝える機会を何度も逃してしまい、今に至っていた。


「今日もお仕事? お兄ちゃんは?」
「シルバーアッシュ様とは別件ですよ」
「そっかぁ。そういえば、二人がロドスで一緒にいるとこってあんまり見ない気がする」
「そもそも、あの方とロドスに来ることがないですから」


彼と一緒に並んで歩くことなど、それこそ財政界で行われるパーティーくらいである。お互い、畑違いだと言わないまでも受け持っている職務が被ることはないし、業務の場が被ることはない。セイカの役割は数あれど、シルバーアッシュの提言通り財団がロドスとの協力関係を結んだ今は、ロドスとの折衝が主な役割となっていた。それでも一族から割り当てられた仕事は依然としてセイカのスケジュールを埋めている。今日も商品の納入を確認したら、次の取引先へ向かわなければならない。頭の中でタイムスケジュールを確認しているセイカを見て、クリフハートはぷくりと頬を膨らませた。


「デートとかしないの?」
「デート?」
「そうだよ! 一緒におしゃれなカフェ行ったり、お店巡りしたり、二人きりでのんびりしたり―――――つまりイチャイチャするってこと。姉さん、知らないの?」
「デートくらい知ってますよ」


そう、デートの定義くらい知っている。それがどんなものであるかも、セイカは実体験はないものの世俗の知識として身に着けているつもりだ。だから、クリフハートの言いたいこともきちんと理解していた。デート。そういえば、この間一緒にシエスタの黒曜石祭を回ったのは立派なデートではないのだろうか。おしゃれなカフェに行ったし、お店は見て回ったし。二人きりでのんびりもイチャイチャもしてないし、もっぱら話の内容は仕事のことだったけれど。うん、でもこれはきっと周りからみれば紛うことなきデートだろう。それに、シルバーアッシュが婚約者を蔑ろにしている、なんて噂の種を作るわけにもいかない。内情はともかく、外見は仲睦まじいパートナーを装うこと。シルバーアッシュからこの婚約を持ち掛けられたときの条件の一つだ。


(ええ、しっかり覚えてますとも。この婚約における履行条項はすべて頭に入っています)


もちろん明文化などされていない、シルバーアッシュが口頭で伝えたものだ。二人の間に交わされた婚約契約書の内容はそれはもう細かく、書類として形にしてみればその分厚さに目を丸くするほどのものだったが、互いの立ち位置への解釈や振る舞いに関しての要求は言葉で与えられた。あの婚約契約書を作るだけで半年の時間を要したというのだから、お互いの法務関係者がどれだけ骨を砕いたか、推して知るべきというものであろう。閑話休題。とにもかくにも、まずはクリフハートの疑いを晴らさねばならない。セイカはにっこりと笑って、軽く頷きながら言った。


「シルバーアッシュ様とはこの間、シエスタの黒曜石祭を一緒に回りましたよ」
「えっ、そうなの!? っていうか、お兄ちゃんあの日ロドスに来てたんだ」
「ええ。なんでも、用があったらしいんですが」


そういえばあの日、彼はドクター相手ではない別件でロドスに来たと言っていたが、結局その内容までは聞かなかった。だが、シルバーアッシュがあのあと自分と時間を共にしたということは、すでにあの『別件』とやらは片付いていたのだろう。或いは、黒曜石祭の視察がその『別件』だったのかもしれない。セイカはカランド貿易の内情に関しては、シルバーアッシュから齎される情報しか知らない。


(なるほど。だから私に案内役を任せてくださったのか)


これですべて合点が言った。セイカの婚約者という世間体を守りつつ、仕事もこなす。実に合理的かつ効率的な振る舞いである。さすがシルバーアッシュ様、自分も見習わなければ。うんうん、と一人納得に頷いていたセイカに、クリフハートは呆れた目を寄越した。あまり交流の多い方ではないが、それでもクリフハートはセイカ・レーベルヴァインという人物をそれなりに理解しているつもりである。常に完璧な才媛を象るこの女性だが、その実、一度その柔らかな内面の一つまみを見つめることが出来れば、その思考を推測するのは容易い。


(まーた変な方向に考えてるなぁ。ま、これはお兄ちゃんにも責任があると思うんだけど)


最初、クリフハートは二人の婚約に乗り気ではなかった。それはセイカの人柄云々というよりかは、ただ単にあまりにも冷えたビジネスライクな関係に異議を唱えたかったのだ。クリフハートとてもう子供ではない。兄が伴侶に選ぶ相手には途方もない条件が必要であり、世間一般でいう恋愛だけでは成り立たないことも理屈では分かっていた。けれど、それでも。人生を共に歩むならより良い相手と結ばれて欲しいと願うのは家族として当然である。利用し利用されるだけの関係なんて、あまりにも悲しいではないか。相手を尊重し、慈しむことが出来る相手―――例えそれが恋愛感情でなくとも、そういうひとと一緒になって欲しい。


(まあ、一番いいのはやっぱりお互い好きになってくれることなんだけど)


セイカと初めて会ったときのことを覚えている。完璧な笑顔、完璧な応え、完璧な立ち振る舞い。何もかもが一分の隙もない、幼いころ読んだロマンス小説から抜け出してきたヒロインそのものだった。笑みは美しく、指先の動き一つとっても淑女の手本のような女性に、しかしクリフハートが抱いたのは憧れでもなければ、同性としての嫉妬じみた反発心でもなかった。ただぼんやりと、自分だったらきっとこんな風にはなれないだろうなぁ、という漠然とした印象だけだ。型にはまることが悪いこととは言わない。自分を律し締め付けるような生き方が不器用だとも思わない。それでも、彼女が美しく微笑みながら『シルバーアッシュ家の次女』と交流を持とうとする様は、なんとも言えない息苦しさをクリフハートに感じさせた。けれど、それも昔の話。今ではすっかり懐いてしまって、気安く肩を並べられるくらいには打ち解けている。少なくとも、クリフハートにとって、彼女は二人目の姉として自分の中に強く根付いた存在だ。


「あたしもさ、お姉ちゃんと一緒に黒曜石祭に行ってきたんだよ! いろいろお買い物とかもしてさ。あ、そうだ! あたし、姉さんにお土産買ってるの。一緒に部屋まで来てくれる?」
「ええ、かまいませんよ」


お姉ちゃん、と使い分けられ呼ばれた人物であるプラマニクスの顔がぽんとセイカの脳裏に浮かぶ。だが、それはシルバーアッシュと婚約を結ぶ前、家族構成を事細かに記された書類に目を通しているときに載っていた、今よりもやや幼い彼女の顔だ。セイカは直接彼女に会ったことはない。一度だけ謁見を申し込んだことがあるが、返ってきた答えは『その必要性はない』という威圧的な断絶だった。世界有数の財力と武力を有する財団相手に、あそこまで強気に出られるのも、カランドの巫女たる彼女の持つ特権だろう。


―――――あたしさぁ、お姉ちゃんと姉さん、結構気が合うんじゃないかって思うんだよね」


並んで歩く、目線の高さよりやや上にあるフェリーン特有の耳がぴくぴく動くのを横目で見て、それはないだろうとセイカは思わず声にしそうになった否定を飲み込んだ。詳しい事情は知らないが、シルバーアッシュとプラマニクスの仲はあまり良くないらしい。それは心底忌み嫌っているというよりは、現在の在り方を認められない、そんなもどかしさと反発心が根底にあるすれ違いのように見られた。少なくとも、部外者であるセイカはそのように判断していた。そんなプラマニクスが、シルバーアッシュの許嫁であるセイカを素直に受け入れるとも思えない。だが、なんとなくその呟きを流しきれなかったセイカは、可愛らしい丸い耳先から目を逸らしながら尋ねる。


「私とプラマニクスさんに、何か共通点が?」
「うーんとね、例えば甘いものが好きなとことか、我慢強いところとか、実はお転婆なところとか。―――――あと」
「あと?」
「お兄ちゃんが大好きなところとか」


ねー、と顔を覗き込んでくるクリフハートに、セイカは「そうですね」と微笑んだ。彼のことは尊敬しているし、好ましく思っている。しかし、正解の返答を選んだはずなのにクリフハートにはぷくりと頬を膨らませて「つまんなーい」と呟かれてしまう。どうやらこの反応はお気に召さなかったらしい。


「お兄ちゃんもまだまだだなぁ」
「そのようなことはないと思いますけど」
「そうだったね。まだまだっていうよりダメダメって感じ!」


全然意識してもらってないじゃん、と憤慨するクリフハートに、セイカは首を傾げ「そんなことはありませんよ」と二度目の否定を口にした。これは本当だ。自分はいつだってシルバーアッシュのことを意識して行動している。彼の隣に相応しい女性で在れるように、彼を失望させないよう常に有能さを示せるように、いつでも彼の要望に応えられるように。いつだってセイカの物事の判断基準にはシルバーアッシュが噛み合わさっている。そう伝えれば、クリフハートは「そうじゃないんだよねぇ」と嫌に物憂げな言葉を吐いた。


「そもそもさ。なんで姉さんは、そんなにお兄ちゃんの役に立ちたいって思うの?」
「それは」
「あ、言っとくけど、婚約者だからとか大切なパートナーだからっていう理由以外でね! はいどうぞ!」
「えっと、私がシルバーアッシュ様の役に立ちたいと思うのは、その、………」


彼に認められたいから。そうしなければ、彼の隣に在り続けることはできないからだ。だから、セイカは己の有用性を示すために自分が持ち得るすべてを使って日々を突き進む。だが、この答えはまだ過程だ。きっとクリフハートが質そうとしている意図とは違う。彼に認められたい。彼の隣に並び立ち続けたい。それは、役に立ちたいという願望を他の言葉に置き換えただけのものだ。もっと根本的な、何故。その願いの源泉。願望ではなく欲求。どうして、自分は。


(どうして私は、こうまでして、シルバーアッシュ様に相応しい人であろうとしているのだろう)


本当なら、もっと手を抜いたっていいのだ。彼の婚約者の立場を維持するだけなら、わざわざ自分がロドスに顔を出すこともしなくていいし、自社の武器を使うオペレーター達の自主練に僅かな時間を割き、アドバイザーとして参加する必要もない。輸送作戦に参加して大怪我など、不必要の極みだ。求められたことを、求められた分だけ返せばいいだけの話。どうして、自分は。


―――――あ、)


ざわ、ざわ、と不吉な気配が背後に忍び寄っている。シダの葉で神経をくすぐられているような、焦燥と不安を掻き立てる気配。それ以上考えてはいけないと囃し立てる声。脇腹をそっと氷の手で撫ぜられたような悪寒と一瞬の震え。規則正しく廊下に響いていた靴音が一つ減る。節電のために光量を絞られた天井灯が作る影が、いつもよりも粘度を増してリノリウムの床に張り付いている。重くなった心臓が身体の奥へ落ちないように、胸の前で拳を作って鼓動の上に押しあてた。うっかり動きを止めてしまったのではと思った心臓は、いつも通り、平常の速さで収縮を繰り返している。立ち止まったセイカにクリフハートが数歩先から振り向く。それから大きな溜め息を吐くと、握られたセイカの拳を取って再び歩き出した。


「よーし、分かった。これはなかなか手強そう。姉さん、今から時間ある?」
「え、ええ、ちょっとくらいなら」
「なら、予定変更ね! あたしの部屋に寄った後、食堂でスイーツ食べながら作戦会議だから!」
「え、あの」
「長期戦も籠城戦もどんど来いだよ! これでもあたし、根気強い方だから!」
「なんの話ですか!」


どうしてシルバーアッシュの話がいきなり戦略の話になるのか。話題の繋がりが分からない、と目を白黒させるセイカに、クリフハートは強く決意した。振り向いて見たセイカの表情を見れば分かる。脈はある。けれどその脈に眠る感情の原石を掘り当てて磨き上げるには、ものすごい労力が必要となるだろう。だが、そんなことは些末なことだ。自分が恋のキューピットとならず、誰がこの二人の背中を押せるというのか。大丈夫、自分なら出来る。目標が出来たなら後は突っ走るのみだ。


「大船に乗ったつもりでいてね、姉さん!」
「だから何の話ですかっ」


任せて。いつか二人を、ロドス一のバカップルと呼ばせてみせるから!
そんなクリフハートの熱意を表すように、彼女の美しい毛並みの尻尾が強くうねった。