その願いを知る






「そういや君、今近くにいるんだろう? もし時間があるなら、君も顔を出してみないか?」


よほど積み重なった資料から逃避したかったのだろう、緊急の用でもないのに架電してきたドクターは、やや疲れた声でそう言った。なんでも「シルバーアッシュ相手の電話だと、大抵打ち合わせって言っとけば誤魔化せるから」のだとか。サボる言い訳に使われているらしいが、それが息抜きになるのならそれでもいいだろう。そんなやりとりが数日前のこと。そして今日、予定通りに仕事を終わらせて観光都市シエスタへと向かっていると、再び端末が震えた。送り主にドクターの名前が表示されているメッセージを開いて、シルバーアッシュは目を丸くする。


(これはドクターと………セイカ、か?)


疑問形になってしまったのは、添付された画像に映しだされている彼女が自分の知っている姿とはあまりにもかけ離れているからであった。髪は涼しげに大きな花飾りでまとめられ、いつもしっかりと隠されている首や肩、胸元まで惜しげもなく晒されている。極めつけはその表情だ。超然とした笑みでも鋼の無表情でもない。どこか惚けた、実年齢よりもさらに幼く見える表情。可愛い、という感想がぽろりと出てきてしまうほど、その顔は愛くるしい。


(随分と悪戯が過ぎるな、ドクター)


大方、端末の調子が可笑しいなどと嘘を吐いて、彼女の隙をついたのだろう。彼女の視線もレンズのやや下に落ちているから、完璧な不意打ちだと分かる。もし写真を撮られると分かっていたなら、彼女は通常振り撒いている調整済みの笑顔を張り付けるはずだ。自分の隣に並ぶ彼女がそうであるように。その写真だけならばまあ、シルバーアッシュも心穏やかにいられただろう。いや、この時点で若干ドクターに言いたいことが3つほどあるのだが、それだって笑って流せたはずだ。だが、そこにあるメッセージがいけなかった。


『どうだいシルバーアッシュ、羨ましいだろう。この服もセイカからのプレゼントだ。あと彼女の服も超かわいいぞ』
「………ほう」


これ以上ないほど露骨に煽られている。ロドスでドヤ顔をしてセイカの肩を抱いているドクターがまざまざと思い浮かぶ。なるほど、記憶がなくなってもこちらを煽る上手さは忘れていないということか。いや、あれは記憶ではなくもはや生来の気質に由来しているのかもしれない。腐っても相手は神経学、医学、軍事戦略を網羅する天才だ。効果のない煽りをかましてくる相手ではない。どうやらドクターには、シルバーアッシュが抱いているセイカへの想いなど見抜かれているらしい。


「すまないが、急いでくれ」
「かしこまりました。………何か問題が?」


馴染みの運転手に声を掛ければ、端末を見て渋い顔をしていたシルバーアッシュを見ていたのだろう、平坦な声で尋ねてくる。シルバーアッシュは端末を手にしたまま、ふ、と口元を緩めた。


「ああ、そうだな。一刻も早く会わなければいけない相手が出来た」











シエスタではなくロドスへとハンドルを変え、着いたのは午後を過ぎたところだった。近くにいたオペレーターにドクターの居場所を訊けば、とっくに『黒曜石祭』へ繰り出しているとのこと。ならば、あちらへの制裁は後に回そう。次いで、セイカの居場所を問い、彼女の足取りを追う。医務室、休憩室、訓練室、食堂。どうやら、確固たる目的があるというよりは、気が向いた場所をうろついているといった動きだ。彼女がこういう風にロドスの中を巡るのは珍しい。最後にやってきた甲板は、シルバーアッシュも気に入っている場所の一つだ。彼女の姿は探す必要もなく、そこにあった。その立ち位置が、狙撃や襲撃の危険性を鑑みたものだとシルバーアッシュは知っている。景色を楽しむために来ただろうに、あれでは精々欄干くらいしか眺めるものがないのではないのだろうか。


「随分と楽しそうだな」
「っ!?」


声をかければ、こちらの気配に気付いていなかったのか、セイカは身体をびくつかせた。背後を許すとは彼女らしくもない。或いは、この祭りの雰囲気で警戒が緩んでいるのか。願わくば、自分だったから、という理由であればいいと思う。せめて自分には、その痛々しいほどまでに張りつめた自衛が解けていてくれたなら、と考え、一向に振り向かない彼女に首を傾げる。だが、その硬直もものの数秒で解け、薄青の柔らかな布地をひらめかせながら振り向いたそこには、いつもの笑顔を浮かべたセイカがいた。


「お久しぶりです。シルバーアッシュ様もこちらにいらしてたんですね」
―――――


予想はしていた。だが、実際に公を完全に取り払った彼女の姿を見て息が詰まる。うっすらと肩や腕に残る傷跡は、今は隠されていない。いつも書類やペン、時には武器が握られているその手にはシンプルな麦わら帽子が代わりにある。完全非武装、という言葉が脳裏に浮かんだ。逆光が布地を透かして、ぼやけた身体の輪郭を浮かび上がらせる。女性を褒めるのは慣れているはずなのに、咄嗟に言葉が出てこない。結局出てきたのは、当たり障りのない話題だった。ここにドクターがいたら、きっと腹を抱えて笑っていたに違いない。


「確か、財閥はシエスタの祭りにも関わっていたな」
「はい。資金提供だけですが」
「そうか」
「シルバーアッシュ様も黒曜石祭に用が?」


うっすらと口元を上げながら問いかけるセイカに、すう、と自分の機嫌が冷えていくのを自覚する。さっきまで胸を占めていた彼女への温かさは、その鋳造された笑顔で打ち消されていた。彼女と自分の間にある距離をまざまざと見せられている。自分と彼女はビジネスパートナーであり、それ以上でもそれ以下でもないのだと、言外に言われているような気がした。思わず溜息を吐きたくなる。吐いたところで、彼女は何も思わないだろうが。



「いや、別件だ」
「そうでしたか。しかし、ドクターは祭りへ行ってしまっていて。もし私でお預かりできるものがあれば、引き受けますが」
「いや、構わない。元より、ドクターに用があるわけではなかったからな」


お前に会いに来たのだ、と言えば、彼女はどんな顔をするだろう。いや、想像できる。きっと「何かご用命ですか?」と心の底から仕事の案件を持ち掛けられているのだと疑わない表情で聞いてくるに違いない。案の定、彼女は意外そうな顔で「そう、なのですか?」と返してきた。そうなのだ。ここに来た用は今まさに、消化されている最中なのだから。視線を合わせれば、セイカは慌ててシルバーアッシュの目から逃れるように視線をずらし、やや早口で告げた。


「でしたら、私はこの辺りで失礼しますね。シルバーアッシュ様も、たまにはゆっくりお休みください」


あくまで優雅に、淑やかに。セイカは訓練された美しい所作で頭を下げると、ゆったりとした歩調で甲板を後にする。仮にも婚約者に会って、交わす会話をこれだけで済まそうとするものだろうか。いや、彼女は自分の言葉を忠実に守っているだけなのだ。自分と彼女の婚約はあくまで政治的・政略的結びつきであり、それ以外のものを強要するつもりも要求するつもりもないと。そう言ったのは自分ではないか。過去の自分に伝えてやりたい。その発言が数年後、己の首を絞めているぞ、と。


(だが、これでは割に合わんな)


ドクターばかりずるいのではないか。自分だって、彼女の慌てふためく姿が見てみたい。もっと言えば、自分に振り回されて取り乱す彼女が見てみたい。なんとも理不尽で子供じみているとは分かっているが、思いついてしまうとやりたくなる。シルバーアッシュは端末を操作すると、先ほどドクターから送られてきた画像のみをセイカの端末に送信する。するとどうだ。さっきはメトロノームのように規則正しく響いていた靴音が、まるで陸で跳ねる魚のような勢いで以て近づいてくるではないか。しかも甲板に飛び込んできた彼女はなりふり構わずシルバーアッシュに詰め寄ってくる。


「え、え、エンシオ様! 今すぐそのデータを消去してください!」
「断る」


久しぶりに彼女の声で紡がれた本名に、意図せず気持ちが浮ついてしまう。懇願の一刀両断にセイカは詰め寄るだけではなく、シルバーアッシュの腕に縋りついてくる。彼女にとって、この写真は汚点ともいえる代物らしい。


「断らないで! お願いします!」
「何故だ? よく撮れていると思うが」


これは本音である。ジャストタイミングで切り取られたこの表情は、見ているこちらに微笑ましさを齎す力を持っている。きっと、その力が働くのは自分だけであろうが。後からドクターの部分だけ切り取って送り返してやろうか、というやはり大人げない考えが思い浮かんだが、これはしまっておくことにした。


「そ、それは不意打ちで撮られたもので………」
「だろうな。ドクターの奇襲技術は日々上達しているようだ」
「それは戦闘場面でのみ発揮していただきたく………」
「私はお前の写真を一枚も持っていないからな。ちょうどいいプレゼントとして受け取っておくことにした」


そう言えば、セイカは目尻を赤くしたまま呆然とした顔をする。写真に写った惚けた顔も良かったが、この顔もなかなか良い。ドクター辺りならまた「シャッターチャンス!」と端末を構えていただろうが、生憎とシルバーアッシュの両腕は縋るセイカの手で塞がっていた。振りほどこうと思えば出来るが、それはあまりにも惜しい。このまま膠着状態でも構わないが、それだとまたセイカを逃がしてしまいそうだ、とシルバーアッシュは口を開く。


セイカ
「はい………」
「お前はこの街に詳しいと聞いた」


数年前にこの街でセイカが巻き込まれた二重誘拐について、シルバーアッシュはすでに調査済みだ。よくもまあ、あんな事件に巻き込まれて五体満足で生き残れたものだと思う。彼女が遭遇した事件を調べる度に、シルバーアッシュは彼女がこうして自分に出会ってくれたこと、自分の手を取ってくれたことに感謝の念を抱くのだ。神でも運命でもなく、生きることを諦めなかった彼女自身に。いきなりの話題転換に、セイカはシルバーアッシュとの距離の近さをさほど気にしないまま「ええ、まあ」と曖昧に頷いた。


「良ければ、案内してもらえるか」
「私がですか?」
「ああ。お前と共に、この祭りを見て回りたい」


そう言えば、セイカはゆるゆると腕を離して一歩下がる。その顔は何か言いたげに一度二度顰められ、もしかしたらこの写真を消すことを対価に求められるかもしれないな、と端末に目を落とす。彼女も財閥の一員として交渉を生業とする人物だ。そのくらいのことは考えに浮かぶだろう。まあ、消したら消したでまたドクターから貰えばいい。そんなことを考えていると、セイカは持っている麦わら帽子で口元を隠し、ぼそぼそと、いつにもなく歯切れの悪い言葉を発した。


「まだ誰にも教えていない、とっておきのお店があるんです」


音になったのはそこまでだった。けれど、それで十分だ。彼女は照れを噛み潰しているのか、困ったように眉を寄せながら俯いている。思わずその頭を撫でたくなる衝動に駆られたが、寸でのところで押し留める。このままだと、なし崩しに余計なことまでやったり言ったりしそうだ。


「それは楽しみだ」
「ご期待に沿えるかは、分からないのですが」
「ああ、それならば問題ないだろう」


肩を並べて歩き始めれば、どうして、という顔でこちらを見上げてくるセイカ。通常履いている厚底とヒールで背丈を盛っていないせいで、いつもより急な角度で見上げてくる視線に可愛らしさが増量される。そして、見下ろすこちらとしても胸元辺りの防御が思ったよりも薄くなっていることに気付いてしまい、何か上に羽織るものを後から買ってやろうと一つ目の予定を決める。


「お前と共に行くのなら、どこでだって楽しいだろう?」


そう微笑めば、セイカはまたあの、信じられないようなものを見る目でシルバーアッシュを見つめ、まだ日が照る外にも出ていないのに、帽子を深々と被ってしまった。