祈りだけが在ればいい






彼女の第一印象を覚えている。


「初めまして、エンシオディス・ シルバーアッシュ様」


差し出された手は一見よく手入れの行き届いた美しい肌にも見えたが、握手を交わしてみれば、その節々に皮の硬くふくれた胼胝があるのがよく分かった。きっと目を凝らせば、火傷の跡や切り傷の痕もあるのだろう。武器を取り扱い、薬品を恒常的に扱う手だ。そう思えたのは、彼女の来歴を徹底的に洗い出したからである。ライン生命やレイジアン工業と太いパイプを持ち、ヴィクトリア王国への出資も行っているという、今は押しも押されぬ大財閥。この広い世界の中でも、主たる覇権との関係図を作るならば一度は名前が出てくるだろう、横に大きな人脈を持つ強固な勢力。そして、その財閥を語るとき、彼女を表す言葉は大抵決まっている。


レーベルヴァイン財閥の『余りもの』


無能ではないが天才でもなく、姉である“ザエル・レーベルヴァイン”と兄である“ヤエル・レーベルヴァイン”の作り出す光にかき消されてしまった不憫な末娘。それでも、彼女を出来損ないと揶揄する者がいないのは、彼女が世間の作り出す役立たずという概念のボーダーを常に上回っているからだろう。悪口に少しばかり口を噤むくらいには優秀。けれど、嘲りの息の根を止めるほどの才能はない。なにもかもが中途半端。口さがない者は、せせら笑いながら彼女を『劣化品』だと嗤う。


彼女を選んだのは、ただこちらに都合の良い条件が揃っていたからだった。


シルバーアッシュにとって、このくらいがちょうど良かった。歴史上、イェラグとの深い関わりはなく、宗教面でも対立や面倒ごとを起こす要素はない。財閥が取り扱う業種はカランド貿易との相性も良かったし、財力もある。なにより、彼女そのものの価値は、あまり高くない。シルバーアッシュが欲したのは彼女をハブとして繋がるありとあらゆる情報・資源・資金であり、彼女自身ではなかった。彼女を引き入れることで手に入れられるこちらのリターンは大きく、彼女を手放すことで相手が損をすることもない。これ以上とない良い『取引道具』。


(守られることもなく、顧みられることもなく、兄と姉の威容に押し潰され続けながら生きてきた、か)


手元に集まった情報から判断すれば、さぞ面倒な女が手元に来るのだろうと、シルバーアッシュはそう思っていた。公式な情報から人々の口に上る噂まで、そのすべてから組み立ててみても、扱い難い手合いだということは分かる。権力の跡取りに典型的な、物質的には豊かだったが、精神的には恵まれなかった存在。別に心を開いてもらわなくとも構わないのだ。完全な政略結婚、こちらも必要以上に相手に構う気はない。うるさい外野を黙らせるため、立場に見合ったそれ相応の働きは求めるが、腐ってもレーベルヴァインの息女、それはあちらだって承知しているだろう。例えあちらが自分を蛇蝎の如く嫌おうがかまわない。良好な関係を築いているのだと、周りに取り繕うくらいの強かさがあれば。そう思っていたのだが。


―――――


初めて会った彼女の笑顔は、柔らかかった。まるで春の陽に溶かされた終の雪からそっと顔を覗かせる若芽のような瑞々しさ。凜と振る舞ってはいるが、まだその所作の端々に年相応の幼さを隠せずにいる。そのくせ、無理に背伸びをしているという印象は与えず、身の丈の中で許される分だけ自分をより良く見せようと胸を張る様は好ましい。事前には思い浮かべもしなかった、素朴という形容詞さえ脳裏に過ぎった。目も潰れるようなシャンデリアの下、こちらを見上げてくる瞳には影も淀みもない。真っすぐとこちらを見つめてくる様子は、どこか妹たちを思い出させる。


「どうかされましたか?」
「その………すみません。婚約の話は父から聞いていたのですが、まだ実感があまり持てなくて」
「急な話でしたからね。慌ただしく進めてしまって済まなく思っています」
「いえ、そんなことは気にしないでください」


本来ならば事前に顔合わせをする予定であったが、お互い多忙の身だ。結局、スケジュールはずれにずれ、婚約発表のパーティーで初めて顔を合わせるという形になってしまった。自己紹介を軽く済ませ、二人揃って挨拶周りをする際にも、招待客たちの言葉に見え隠れするのは一族の再興を果たした己への上辺ばかりの賛辞と、彼女の『幸運』とやらを強調する台詞ばかりだ。


「いやぁ、意外でしたな。まさかヤエル様の妹君が嫁ぐことになられるとは」
「しかしこれで良かったのかもしれませんな。ええ、女性の幸せというやつです」
「これからはシルバーアッシュ一族の庇護が受けられるということですし」
「両家のパイプを繋ぐ役として、ザエル様の妹君はまさに適役でしょう」
「これからはシルバーアッシュ様に相応しい女性として、ますます魅力に磨きをかけねばいけませんね」


字面だけ見れば祝福しているその言葉の裏に隠された嘲笑いも、彼女はしっかりと見抜いていた。一族の中で中途半端な立ち位置にいる女など、婚姻関係を利用するぐらいしか使いどころのないのだ。守ってくれる相手が出来てよかったじゃないか。精々飽きられぬよう、媚でも売っているといい。


「まったく、羨ましい幸運ですな」


―――――『余りもの』には勿体ないほどの。


副音声でもついているのかと疑いたくなるほどの、あからさまな挑発と罵倒。彼女はその悪意を時には流し、時には受け止め、時には跳ね返す。相手を選び、防御と攻撃を使い分けていくその様は彼女が今までどれほどの敵を相手にしてきたかを如実に表していた。財閥の一族ともなれば、敵味方の内情も一枚岩ではいかない。それは自分も身を以て理解している。


(なるほど、彼女はさしずめ避雷針か)


彼女の兄への嫉みも、彼女の姉への恨みも、強固な守りを張り巡らせている本人たちには届かせられない。だからその代替品として、それらの仕打ちはすべて彼女へと向かう。彼女ならば簡単に手が届き、傷つけることも容易く、そして彼女を損なわれることに一族は目を瞑っている。そして彼女自身も、矢面に立ちあの細い身体をたった一枚の防波堤にすることを選択している。姉の代わりとして、兄の模造として、財閥への攻撃を一心に受ける存在。まるで、見晴らしの良い丘に吊るされた生贄だ。どのくらい相手をしたか、不意に彼女のグラスを持つ指が震えた。それを自分が見てとれたのはただの偶然だった。けれど、気が付いた以上見逃そうとは思わない。


「失礼」
「えっ、あの」


切りのいいところでやや強引に話をまとめ、まだ半分ほど中身が残っているグラスを取り上げて近くのボーイに押し付ける。手を取れば、指先は恐ろしいほど冷えてきた。酒を飲み人の波の中を泳いでいたにも関わらず、まるで血の気がない。その冷たさは一瞬、もしや彼女の心臓はとうに止まってしまっているのではないかと、そう勘繰ってしまいそうなほどだった。開け放たれた窓の向こう、人のいないバルコニーへと向かう。夜空の下に出た途端、清涼な風が鼻先を掠め、様々な匂いに麻痺した嗅覚が漂白されていく。


「シルバーアッシュ様?」
「随分と顔色が悪い。酒は苦手ですか?」


先に言い訳を用意して問うてみれば、彼女は一度言葉に詰まったあと「ええ、そうですね」と眉を寄せて笑う。パーティー慣れしている彼女が酒の加減を間違えるとも思えない。渡されるまま酒を飲んで酔うなどという隙を見せる彼女でもないだろう。―――――と、そこまで考えて、自分の中にある彼女への評価がやけに高いことに笑ってしまう。人を見る目には自信がある。信頼もしている。だが、初手からこうも好意的に見るのも珍しい。


「あの、シルバーアッシュ様。しばらくここで話していてもよろしいですか?」
「構いませんよ」
「有難うございます」


バルコニーからはよく手入れされた薔薇園が見える。それらを眺めながら話す話題は多岐に渡った。最近発表された科学論文の内容やイェラグでの暮らし、好きな花の種類から今頭を悩ませている世界情勢の問題点まで、まるで花弁を一枚一枚千切っていくように、絶えることなく、けれどどこか滑らかさが足りない会話をぶつ切りで重ねる。試しに彼女の姉兄の存在を口の端にあげてみても、彼女はごく自然にその話題を掬い上げた。薄暗い月夜の下で見る横顔からは、偉大な存在だと世界に名を知らしめる兄姉へのコンプレッスクは見て取れなかった。あるのは厳かな敬意と敬虔な信頼。けれど、家族に対して向けるにしては温かみも親しみも欠けた感情。


「シルバーアッシュ様は良い方ですね」


不意に、今まで薔薇園を眺めていた横顔がこちらへ向き、にこりと微笑む。この頃には口調もやや和らぎ、こちらも敬語から普段の言葉遣いに戻っていた。自然体、というにはまだ取り繕うものが多かったが、それでも世間でいう友人くらいの距離にはなっていたのかもしれない。


「どうしてそう思う?」
「シルバーアッシュ様はまっすぐ私を見ていらっしゃるので。大抵の人にとって私は『兄姉の妹』なんです」


淡い紅で彩られた唇が綻ぶ。ヤエルの妹、ザエルの妹。一体、今日話しかけてきた客人のなかで、何人が彼女を名前で呼んだだろう。思い返してみるが、シルバーアッシュの知る中で、誰一人として彼女を名前で呼んだ人物はいなかった。彼女の父親の名前を出す実業家がいた。彼女の母親の名前を出す慈善家がいた。彼女の姉の名前を出す研究者がいて、彼女の兄の名前を出す貿易商がいた。けれど、彼女をセイカと呼ぶものはいなかった。


「だけどあなたは、一度も私を誰かの娘とは言わなかった。誰かの妹とは言わなかった」


可笑しいでしょう、こんなことが嬉しいなんて。そう続けた彼女の声色はそれでも陰気な卑屈さや惨めったらしい悲哀さなどなく、心なしか晴れ晴れとしたものさえ感じた。素直に嬉しかったのだと、瞳を月に向けて言う。シルバーアッシュには、その瞳の穏やかさに何を思えばいいのか分からない。資料で漁った程度でしかまだ自分は彼女を知らないのだ。数十ページの調査報告書と、バルコニーでの会話。普通の人物ならば、それだけで推し量り査定を行う自分が、彼女に対する評価を後回しにしている。ああ、それはつまり。


(もっと彼女のことを知りたいと、そう思っているということか)


かつて自分にそう思わせた人物が一人いた。お互い違う道でそれぞれの目的へ万進し、けれどいつか道が交わるときが来るだろうと、その時を心待ちにしている人物が。面影も人柄もまったく似ていない少女を見て、ひと時学友として名を呼び合った彼の人を思い出す。この出会いもいつか、自分に大きな意味を齎すのだろうか。そんな風に思いを馳せたあの日から、どれほどの時間が経ったか。


―――――ふと、遡っていた意識が今へ戻ってくる。


シルバーアッシュの目の前には、白い包帯に巻かれている女が横たわっていた。あの日、パーティーで濃いめの化粧を施されていた顔からは血の気が失せ、幾つか年を重ねたはずなのに、今の方が幼さが二割増しになっている。シルバーアッシュはじっとその顔を見ながら、小さく呼吸を繰り返す彼女の手を握っていた。


セイカが戦闘に巻き込まれたと聞いたのは、ロドスに来てすぐだった。


彼女は戦闘要員ではない。主にロドスへの情報提供と物資調達を担っており、扱いはあくまで客人だ。カランド貿易と違って、彼女のバックにいる財閥はロドスと正式な条約を締結しているわけではない。けれど、彼女自身がロドスを気に入っているのだろう。時には公私の境界を曖昧にしてまで、ロドスの利益に貢献しようとする。シルバーアッシュには、それがどうにも許せなかった。


(何故、彼女はこうもロドスに拘るのか。以前ならば、決してこんな依頼を引き受けることはなかった)


彼女は人一倍、死の回避に敏感だ。それは『死』そのものを恐れているのでも、自分の命を大切にしているわけでもない。いや、ある意味自分の命を大切にしているのだろう。だが、それは保身ではなく、自分が死ぬことによって自陣に齎される不利益を厭ってのことである。彼女にとって、生き続けることは義務なのだ。自分という歯車を組み込んだシステムが壊れないようにするために、彼女は彼女のすべてを使って自分を守っている。


けれど、いつからだったろう。彼女がその矜持を見失い始めたのは。


以前の彼女ならば、ドクターの頼みもきっと断っていた。実際、今回の物資配達も彼女でなければいけない理由はなかった。しかし、物資提供の責任者として、変更された送り先へ届けること自体は、彼女が行っておかしくない業務範囲ではある。だからドクターもセイカに話を持ち掛けたのだ。そして、その結果、セイカは怪我を負った。明確に誰が悪いというわけでもない。それぞれに非があり、悪い方向に噛み合った。それだけなのだろう。そう理性では納得出来ているのに、心臓の底にこびりついた苛立ちは未だ拭いきれない。


―――――


ぴくり、と握った指先が跳ねる度に顔をあげて、彼女が起きたのかと様子を窺う。ここに来て、もう何度この行為を繰り返したか。怪我はしたが、命に別条があるわけではないのだし、彼女に急ぎの用があるわけでもない。けれど、彼女一人を残してこの場から離れるなど、シルバーアッシュにはできなかった。最初はただ、無事を確認するだけのつもりだったのに。放り出された腕を見て、爪の割れた手に触れてしまえば、もう駄目だった。無為に与えられた時間と沈黙は、シルバーアッシュに余計なことを思い出させる。


「………そうか。きっかけは私だったな」


まだロドスが今ほどの土台を持ち得ず、内情も火の車だった時分だ。いくらシルバーアッシュがカランド貿易の主宰であると言っても、そのすべてをロドスへ注ぐわけにはいかない。ありとあらゆるものが足りないロドスを走らせるべく、シルバーアッシュはセイカ―――正確には、セイカを通して得られる財閥の力を―――引き入れることにした。あの時は一時的な援助で終わるだろうと思っていただけに、今でもこうして交流が続いているのは予想外であったが。あの時、シルバーアッシュにとって優先すべきはロドスであった。いや、ロドスというより、己の盟友を支えることと言った方が正しいか。とにかく、利用できるものとして、シルバーアッシュはセイカに声をかけた。そして、彼女もそれを理解していた。


(そのための婚約だ。繕う必要もない)


ただ、相手の持つ力だけを利用するための政略の一つ。彼女を利用することに後ろめたさなど感じる必要はなく、ロドスへ彼女を差し出したあの時の選択は間違っていなかったと今でも断言できる。けれど、どうだろう。目の前の彼女を見て、やるせない気持ちが臓腑を重く沈めていく。こんなはずではなかった。彼女がここまでロドスを重要視するなど、思ってもみなかった。彼女にとって、ここはそんなにも居心地よい場所なのだろうか。彼女の矜持を、彼女の信念を変質させるほどに? そう思わせたのは一体何なのか。―――――誰なのか。


(まさか、こんなことで悩む日が来ることになろうとはな)


握る力を強めても、彼女の瞼は開かない。それでいいと思う。さっきまで、あれほど目覚めを待っていたというのに、今彼女と相対すれば、ぶつけるべきではない問いをぶつけてしまいそうな気がして、シルバーアッシュは唇をきつく結んだ。少なくとも、どうしてここまでしたかなんて責め立てるような問いを、今は向けるべきではない。今ここにあることを望まれるのは、祈りのみだ。ただ、混じりけなく、目覚めた彼女が痛みで苦しまないようにと、砕きかけた矜持の破片で喉を詰まらせないように。


「………セイカ


ただ、その名と共に、祈りだけが在ればいい。