祈りの温度






まず物心がついて教えられたのは、この世界における価値の換算方法であった。自分がどんな家柄に生まれてきたのか、自分の一族はどんなことを生業としているのか、その生業が作り出す敵がどれほどいるのか、味方がどれほどいるのか。それを叩きこまれたあと、自分の立ち位置を教えられ、価値を換算させられた。医療技術と武器製造、人を生かす技術と人を殺す道具を同時に取り扱う財閥の娘。類稀なる美貌と人の心を掴む天性の才能を持った兄。一流の学者も舌を巻く頭脳とどんな障害にも立ち向かえる不屈の精神を持った姉。


そんな神の寵児を兄姉として持つ自分。


それぞれ秀でた才能をまったく別の形で与えられた姉と兄をどちらも切り捨てることのできなかった父は、二人を同時に財閥当主に沿えることに決めた。当初はすわ当主の座を争って兄と姉が争うのかと危惧されていたが、それは杞憂であった。二人は互いに不干渉を貫くことで一族の二分を防いだ。姉は医療の道へ。兄は商人の道へ。そんな穎才達から数年遅れて生まれたのが私であった。


―――――お前に必要なのは自分の身を守る術だ。分かるな?


両肩に乗せられた父の手の重さを覚えている。姉と兄の存在を宝石と例えるならば、私は卑金属であった。浅く広く役には立つ。けれどそれ以上の付加価値はない。あらゆることに優秀で、あらゆることに長けていたが、それだけ。秀才ではあったが、天才ではなかった。人によっては自分のような人材をこそ徴用することもあっただろうが、一族にとって、自分は姉や兄の補助装置でしかなかった。大切にされなかったわけではない。蔑ろにされたわけではない。けれど、私が生まれ、姉や兄に続く人材にはなり得ないのだと判断されたとき、この世界における私の価値は弾きだされた。


―――――己を守ることを覚えなさい。あらゆる危険を察知し、遠ざける術を身につけなさい。


それは暗に、お前を守る余裕はないと言われたようなものであった。一族は、持てるすべてを使って兄と姉を守ることに注力した。護身術を覚えさせることが、武器の扱いについて教育することが、お前にまで庇護の手を伸ばす余力がないという意味なのだと気付いたのは、齢14の時であった。それを恨んだことはない。父は父なりに、私を案じていた。母は母なりに、私に心を砕いていた。例え、自分が暗殺に晒されたとき、母の表情に過ぎるのが『一番下の子供で良かった』という安堵であっても。自分が事故に遭いそうになったとき、父の取る行動が私の怪我の具合よりもまず、兄や姉の周りでも不審なことが起きていないかという確認であっても。


―――――お前を守れるのはお前しかいないのだ。お前は自分を守ることだけを考えなさい。


そこに親としての愛情がひとかけらもなかったとは、思わないのだ。


(はい、お父様。お母様)


もう何度も暗殺されかけた。もう何度も誘拐されそうになった。鉄壁の守りを誇る姉と兄に比べ、私は手を出しやすいと思われていたのだろう。実際それは間違ってはいなかった。私は何度も死にかけた。私は何度も殺されかけた。けれどその度、頭を働かせ、身体を動かし、私は私を守ってきた。誰も守ってくれないのを知っていたから。助けを呼んでも誰も来てくれないことを知っていたから。だから、ぼろぼろの身体で目が覚めたあと、いつもするのは反省だった。あの時自分がこう動いていれば。もっと予兆に神経を尖らせていたら。何度も何度も改善点を洗いだして、シミュレーションして、今度こそは失敗しないようにと学習する。昏倒から目を覚ましたあとは、その時間にぴったりだった。だって、誰もいないから。怪我をして意識を取り戻した私の傍にあるのは医療器具の数々だけで、誰もいない。手を握って待ってくれている人も、寄り添って見守ってくれている人も、誰も。数えきれないほどの防犯装置と、自分の生存を電子音に変換して響かせる最新の医療器具。それが私の目覚めを守る番人だ。それらはすべて兄と姉が与えてくれたもの。役に立てなさいと、これで身を守りなさいと、贈られたもの。


(はい、お兄様。お姉様)


苦しくはなかった。悲しくはなかった。
寂しくは―――――ほんの少しは、寂しかったかもしれないけど。
それでも、私にはこのくらいが関の山なのだと、心の底から納得していたのだ。











―――――


微かな息苦しさ。目覚めると同時に鈍痛を訴え始める手足。薬によって曖昧にされた意識。すべて馴染みのある感覚だ。目を開ける前に、ゆっくりと大きく息を吸う。痛みの発生場所を確認。頭部と手足、特に足の痛みが大きい。胴体にさほど痛みがないところを鑑みるに、内臓などに重篤な損傷はないらしい。


(どうして怪我を………。ああ、そうか、確か盗賊の残党に襲われて)


いつものように、ロドスに物資供給に来たあと、時間もあるからと医療器具や武器のメンテナンスを行っていたところ、物資を近くの町にも届けて欲しいと申し出があったのだ。それなら暇を持て余しているオペレーターが何人かいるから連れていくといい、と一緒に物資を積んだトラックを町に向かって運転してところ、近くを縄張りとしていた盗賊崩れの軍連中に強襲を掛けられたのだ。


(地形の判断を誤った。自陣営にいる戦力の把握を迅速に出来なかった。伏兵の見積もりが甘かった)


薄暗い瞼の裏に幾つもの反省点が瞬時に浮かんでくる。あの時ああしていれば、こうしていれば。簡単にシミュレーションを加え、最後に自分が一番重傷であったことを猛省する。最後に狙撃オペレーターの援護に飛び出したのは不覚だった。近くには前衛オペレーターもいたし、あの二人で十分対処出来たはずなのに、余計な気を使ってしまった。結果、自分は残っていた伏兵を相手に怪我を負うことになった。なんて無様だろう。一頻り反省点を上げて、それからうっすらと目を開いて、両目が見えることに少し安堵する。さて、反省点をあげたのならば次は改善点を考えなければ。やや光量を落とした天井灯を見つめながら思考を次の段階にスライドさせようとしたとき、ぴくり、と違和感を感じた。


「目が覚めたか」


突然意識の外から聞こえてきた声に、呼吸が跳ねる。声が聞こえてきた方に首を傾ければ、そこには銀と黒を纏う麗人の姿があった。カランド財閥のうら若き当主にして、自分の婚約者。ロドスではシルバーアッシュと名乗っているようなので、自分もそれに倣ってここではそう呼んでいた。ぱちくり、と目を瞬かせ、状況の判断をしようとするも頭がまったく働かない。予期せぬ他人の出現に、ばくばくと心臓が痛いほど早鐘を打っていた。簡単に言うとすごくびっくりした。どうして彼がここに。もしや、物資のことで何か不備があったのだろうか。それとも先の戦闘で何か不都合なことが? だが、彼は自分が目覚めたことを確認すると、椅子から立ち上がり「ドクターを呼んでこよう」と部屋を出ていこうとする。その瞬間、何かが欠けてしまったような、ぽっかりと失われてしまったような感覚に襲われて、つい呼び止めてしまう。


「あ、あの、シルバーアッシュ様?」
「どうした?」
「い、いえ。何か私に急ぎの用でも? それとも、誰かから言伝が?」


決して多くはない自由に使える時間を消費して、目覚めるのを待っていたのだ。すぐにでも自分へ伝えなければいけないことがあるのではないか。身体を微かに起こして尋ねたが、シルバーアッシュはこちらにちらりと視線を寄越しただけで「しばらく寝ているといい」とだけ告げて扉の向こう側に消えてしまった。しばらく呆然と扉を見つめていたが、言われた通りに身体を横たえ、再び天井へ視線を戻す。一人きりの空間に戻れば、いつも通り、次のプロセスである改善点の抽出に思考を回そうとする。だが、いくら考えようとしても頭が働かない。思考が流れるのは、何故シルバーアッシュがここにいたのか、その一点だ。


(物資はちゃんと町に届けられたし、彼からの依頼も滞りなく進んでる。中間報告は数日前したし、こっちに新しい情報は入ってきていない。向こうが何か新しい情報を掴んだとしても、彼が直々に伝えるような重要なものもないと思うのだけれど)


彼がドクターに会いにロドスに来ることは珍しくない。今日もおそらくはドクターに用事があり、怪我を負った自分をついでに見舞いに来たのだろう。そして、ちょうどよいタイミングで自分が目を覚ましたから、ドクターを呼びに行ってくれた。そう考えれば辻褄が合う。パズルのピースがすべて揃えば落ち着きも取り戻せるというもので、これでようやく思考を次の段階に進められる、と満足げに笑む。だが、その笑みが浮かべられると同時にドアが開き、ドクターが慌てた様子で駆け込んできた。


セイカ、目が覚めたって!? あっ、本当だ起きてる! 良かった………」
「ドクター、おはようございます。お手数をかけてしまってすみません」
「いや、こっちこそすまない。まさかあの場所に彼らがいるなんて思わなくて」


どうやら、あの連中は以前ロドスが近くの町から追い出した感染者の集団らしい。鉱石病が進行し軍を追い出された連中が、武器を手に取って盗賊の真似事をし始め、近くの町で略奪を繰り返していたのだとか。今回の物資補給も、ロドスが彼らを追い出したあと、町の復興に使うためのものだったらしい。町にいた盗賊崩れはすべてロドスが対処したらしいのだが、まだ別動隊がいたということなのだろう。


「君を襲った奴らは然るべきところに引き渡したよ。お陰で、物資も無事届けられた。本当にありがとう」


あと、彼女たちもお礼を言っていたよ、と物資運搬に協力してくれたオペレーターたちの名前が数人分ドクターの口から出てくる。その中には自分が庇ったオペレーターの名前もあり、そうですか、と頷く。つい先ほど、その庇う行為が無駄だったのだと反省した身としては、素直にその感謝を受け取るわけにはいかない。


「一番の重傷は君だったんだけど、どこか痛むところは? 少々大きな傷もあるが、ちゃんと完治するから大丈夫。ただ、その、傷痕はちょっと残ってしまうかもしれないけれど」
「気にしないでください。今更一つ二つ増えたって気になりません」


それは強がりでも気遣いでもなく、本心からの言葉だった。傷は己の弱さを突き付ける烙印であると同時に、生き残ってきた証拠でもある。さすがに顔やら目立つ場所に傷跡が出来るのは避けたいが、衣服で隠せる場所ならどうってことはない。そう笑ってみせればドクターも苦笑しながら「そんなこと言わないでよ」と返してくれると思ったのだが、返ってきた反応は随分と渋かった。


「いや、君はそうかもしれないけど、シルバーアッシュの方がそうはいかないから」
「シルバーアッシュ様、ですか?」
「そうだよ。ロドスに来て君が戦闘に巻き込まれたと知るや否や、ものすごい形相で詰め寄ってきてね。やれ戦闘に出すとは訊いてないとか、彼女は正式なロドスのメンバーではないのだからとか、怪我の具合はどうなのか、とか。戦場以外であんなに殺気立つ彼を見ることになるなんてね」
―――――
「ここに通したあとも、ずっと君の傍を離れようとしないし。まさか半日もここにいるとは思わなかったけど」
「は、半日………!?」
「うん。昼過ぎに来てからずっとここにいたよ」
「え、えっ………」


は一体何時なのかと慌てて部屋の中を見渡せば、ドクターは察してくれたのか「今は午後7時を過ぎたところ」と腕時計を外して見せてくれた。しかも日付の数字も変わっていて、どうやら自分は一日以上気を失っていたらしい。さっきまで熱で火照っていた顔から一気に血の気が引いていく。しかし、血の気が引いたことで逆に冷静に回るようになったのか、また一つ疑問が生まれた。


「でも、何故ずっとここに? 護衛ならば、クーリエかマッターホルンでも付ければよいだけですし、そもそもロドスに私を狙う暗殺者が来ることも、可能性がないわけではないですがほぼないと言っていいでしょう。用事があったのならば、私が目を覚ましたあとに報せて欲しいと頼めばよかったはずなのに」
「そんなの、ただ君が心配だっただけさ。早く目を覚まして欲しいと、君の傍で、手を握りながら祈らずにはいられなかった。それだけの話だと思うけど」
「手を………」


そういえば目を開けたとき、彼が声を掛ける前から自分は違和感を持っていた。最初はそれが何か分からなかったが、他人に指摘されてようやく気付いた。ああ、そうだ。手だ。目が覚めたとき、自分の手には彼の手が添えられていた。触れ続け、体温が同じものになるほどに。重なり合い続け、互いの肌の境が混ざり合ってしまうほどに。


(ああ、そうか。あの心細さは)


彼が椅子から立ち上がったとき得たうすら寒さは、きっとその手の重なりがなくなってしまったからなのだろう。ドクターは「愛されてるね」と揶揄うような声色で言う。そのフードの中に隠されている目元は、きっと緩んでいるのだろう。けれど、私はその揶揄いの言葉もむず痒い視線も気にすることはなく、ぼんやりと右手を見つめる。今はもう誰とも繋がっていない掌を握り、開き、見つめる。


(一体あの人は、どんな気持ちで私の手を握っていたのだろう)


彼との間柄に私の意志は一切介在していない。父が持ち込んだ縁談で、経済的にも文化的にも相性は悪くはないだろうと勧められた婚約だ。その時の私は好いている相手も確固たる目標も持っていなかったから、さして反発も文句もなく彼という男を受け入れた。彼は良い人だ。善良という意味ではなく、私を対等の人間として見てくれる。接していて、心地よい相手なのは間違いない。けれど、その感情は得意先の顧客に持つ好意の延長線に似たもの、損得勘定と利害得失を土台にして成り立っているものだ。だから、自分はあの人を選んだ。あの人との距離の測り方はとても分かりやすい。あの人にとっての私の価値を、私にとってのあの人の価値を、目に見える数字と情報で換算できる。あの人とならばきっと、互いを尊重して肩を並べて生きていけると思った。


(それに、あの人は強いから)


私が守らなくても、守ってくれる人間がたくさんいる。だから、私は安心して、私だけを守って生きていける。父に言われた通り、母に望まれた通り、姉兄が示したように。自分だけを守りなさい。お前は誰にも守られることはなく、故に、お前しかお前を守れる者はいないのだ。私の身体に叩き込まれた技術、私の頭脳に注ぎこまれた知識、それらすべてが家族の教えを体現している。私は私を守るために強くなった。私は私を保つために賢くなった。それだけが私の誇れることなのだ。自分の身くらい自分で守れるのだと、だから貴方の手を煩わせるような存在ではないのだと、そう証明し続けないといけないのに。


(嗚呼、こんなことでは駄目なのだ。彼の足を引っ張るようなことだけはしないと決めたのに)


自分の不甲斐なさに悔し涙が滲む。ぐっと唇を噛みしめても、それはなかなか引っ込もうとしない。きっと投薬されたであろう痛み止めのせいだ。だってこんな悔しさ、いつもなら我慢できている。身を苛む劣等感も、心臓を抉るような自責も、いつもなら涼しい顔で無視して押し込めるのに。どうして今日に限って、それが出来ないのだろう。どうして押し込もうとする度、目を覚ましたときの私を見た彼の顔が思い浮かぶのだろう。もう消えてないはずの掌の温もりを思い出そうと必死になってしまうのだろう。


セイカ? やっぱりどこか痛むのか?」


涙を滲ませる私に、ドクターが慌てた声を出す。私は首を振りながら「はい、ちょっと、いえ、」と肯定とも否定ともつかない反応を返してしまう。このくらいの傷の痛みで泣く情けない女だと思われたくない。けれど、愚かな卑下で勝手に傷ついているのを誤魔化したくて、傷の痛みの所為にしてしまいたい。


「えっと………シルバーアッシュ、呼んでこようか?」
「大丈夫ですっ!」


どうしてそこで彼の名前が出てくるのか。こんなところを彼に見られるくらいなら死んだ方がマシだ。シーツに潜り込んで「大丈夫です。ちょっと眠れば、大丈夫ですので」ともごもご言い返せば、ドクターも浮かしかけた腰を下ろす。それに安堵してそっと顔を出せば「今日はゆっくり休んでて」と頭を撫でられる。どことなく扱いが幼いような気もするが、その身内にも滅多にされたことのない新鮮な仕草に感じ入り、目を閉じる。ああ、どうか、目が覚めるまでに、この胸の苦しさと頬の熱さが消えていますように。そう願いながら、私は逃げるようにして眠りの中へと飛び込んでいた。