夢路の行き人






「おはようございます、キャスパー。好きです」
「………」


唐突に言われた言葉に、キャスパーは固まった。聞き間違いだったのか、いや、そのはずはない。彼女は寝起きだろうが、自分は昨日の夜から寝ていない。徹夜の異様なテンションというか、意識ははっきりしているし五感も正常だ。いつもの挨拶に付けくわえられた、いつもの挨拶じゃない言葉。言った本人は、まるでキャスパーの反応を窺うようにしてじっとこちらを見ている。だからだろう、混乱は長引かずに一瞬で終わった。


「うん。おはよう、セイカ。僕も好きだよ」


頭を撫でてみれば、彼女はきょとんとした顔をして、不満そうな納得しているような、人の表情を読むのが上手いキャスパーでさえ分かりにくい表情を浮かべて、何も言わずすぐに立ち去ってしまった。今のはなんだったのか。寝ぼけていたのかもしれないし、ただの気紛れかもしれない。それでなくとも、彼女はよくああいう言葉を多用するほうなのだし。彼女は、きっぱりと好き嫌いを言葉にするほうだった。人間関係を築くのが下手なのも、きっとその辺りが原因だ。けれど、そのすっぱりとした素直さがキャスパーには好ましかったし、ときおり羨ましいとさえ感じられた。だから、先程の言葉もさして気にすることはないし、あまり真に受けない方が得策というものなのだろうが。


(いや、でも今のは引っかかるな)


何が、というわけではない。強いて言うならば武器商人の勘というものなのだが、ただ違和感を覚えるというだけで、それが何かまでは求めることが出来ない。これがセイカなら、すぐに答えを見つけ出してしまうのだろうが、生憎と自分にはそんな桁外れな才能などない。ちょうど仕事も一段落して、だからだらだらと仕事で埋め尽くされた頭を解すようにして、セイカのことを考える。それだけで癒されるのだから、自分は心底彼女に惚れ込んでいるらしい。自分は他人を愛さない人間だと思っていた。――――彼女と出会うまでは。


「よし、会いに行こう」


仕事で疲れているし眠いけれど、それよりもセイカと話したくて、触れたくて、キャスパーはセイカの部屋へと向かう。とはいっても、彼女の部屋は隣にとっているので向かうという表現はあまりしっくりこないかもしれない。ノックをすれば、すぐに開くドア。不用心だとは思うが、そう言えば「だって、ここにはキャスパー達以外来る人いませんし」とあっけらかんと言っていた。彼女だって、決して命を狙われないというわけではないのだが。チェキータ達護衛を信頼しているのか危機感が足りていないのか。彼女は往々にして、身の危険さえもただの状況判断として“予測”に加味するので、その辺りの感覚は人として欠陥している。


「入ってもいいかい?」
「いいけど、どうしたんですか? 仕事ですか?」
「いいや、セイカと話がしたくてね」
「そうですか」


どことなく落ち込んでいるのは、この頃セイカに仕事を与えていない所為だろう。この前ココに預けたときに襲撃にあったらしいが、あの程度のことではセイカは満足しない。人の命を駒にして考える彼女は、善人に外道だと言われても仕方ないかもしれないが、お偉い軍人だって同じことをしているのだ。どこにだってそういう人間はいる。その価値と使用方法を弁えている分だけ、セイカはまだマシというものだろう。


「何か飲みますか? お酒はありませんけど」
「いや、いいよ。それよりセイカ………」


さっきのは一体? と訊こうとして、何故か言葉に詰まる。訊けば、きっと彼女は嘘偽りなく、脚色も婉曲もなしに答えてくれるはずだ。だから、この場合訊くべきはさっきの言葉の真偽ではなく、その種類を問うのが妥当なのだろう。思考が駆け巡った一瞬に、セイカの声が割り込む。


「キャスパー、眠いんですか?」
「………ああ、うん。昨日から寝てなくてね」


その絶妙なタイミングで割り込んできた言葉に、キャスパーは話を切り出すのを止めた。彼女がこうして人の話を遮ることは珍しい。彼女はなにより情報を求める。呼吸するように五感で情報を集める。故に、会話と言う形で他人から伝えられる“情報”を遮断するなど、まずやらない。相手が言い淀んだならば、その続きが発せられるまでそれはもう粘り強く待つ。それでも、彼女は話を遮った。それはつまり、それ以上話して欲しくないという彼女なりの消極的な意思表示だった。


「駄目ですよ。ほら、ベッドに行きましょう」
セイカが膝枕してくれるなら」
「そのくらいなら、幾らだってやりますよ」


そう言って、セイカはベッドに座ると横向きに畳んだ足をぽんぽん、と叩いた。キャスパーも遠慮なくベッドに上がって、セイカの足を枕にして、ついでに腰に手を回して抱き寄せる。セイカの柔らかい腹部の感触が気持ちいい。呼吸に合わせて浅く上下するリズムに、自然と眠気が襲ってくる。溜まっていた疲れは否応なくキャスパーの意識を夢の世界へと引きずり込んでいく。その暗闇に沈み込む直前(「あいしてます」)そんな声が聞こえたような気がして、幻聴にしてはやけに都合がいい響きだ、とうっすらと笑んだ。