片生いの怯者






もう何度この言葉を言ったか。そして、あと何度、自分はこの言葉を口にできるのか。


「キャスパー、好きですよ」


セイカは自分の膝を枕代わりにして眠っているキャスパーの頬をつつきながら、はっきりと言ってみた。だが、相手は寝ているのだから気付くはずもない。このごろは睡眠時間もうまく取れていなかったのか、余程深く眠っているらしい。つんつんと頬をつついてみるが、反応も何もない。好きですよと、今更、今度は独り言を漏らすように呟く。


この想いに気付いたのはつい最近だった。ある日起きたら突然、自分が恋をしていることに気付いた。その自覚を持って、セイカはキャスパーに好きだと言った。だけど、答えは僕もだよと言って頭を撫でられるだけ。妹扱いされているのは一目瞭然だった。全然伝わっていなかった。けれど、それもそうかもしれない。その時の告白と言えば、おはようございますという挨拶の延長線上だったのだから。ロマンも雰囲気もあったものじゃなかった。だが、セイカとしても発掘した気持ちを一秒でも早く言葉にしたかったのだ。早くしないと、それが色褪せて価値の無いものになってしまいそうで、降って湧いたようなその想いが当たり前になってしまわないうちに、霧散しないうちに言葉にして形を与えておきたかった。


「キャスパー、好きですよ」


言いながらも、セイカはその言葉をもう二度と伝えようとは思わなかった。自分はキャスパーの部下だ。セイカはキャスパーに確実な利益と正確な勝利を与えることができる。それは胸を張っていえることだった。自分の世界を広げてくれたひと。そして、今も世界という盤上で遊ぶ機会を与え続けてくれるひと。けれど、それだけだ。自分はすでに彼のもので、自分が生み出すものはすべて彼に捧げると、彼の元に行くと頷いたそのときから決めていた。だから、今更なのだ。例え伝えたとしても、セイカにはその先にあるものが明確に想像できなかった。何より、愛している、と。その言葉をキャスパーに伝え、思いが通じた時、その感情でさえセイカにとっては予測を組み立てる為のファクターでしかなくなるのが怖かった。一度組み込まれた事実を、セイカは情報としか見られない。愛というものでさえ、セイカにはただの情報として映る。


まだ幼かった時分、セイカには世界がとてもつまらないようなものに思えた。先に起こることがすべて予測でき、それが当てはまることに、落胆さえ抱いていた。テストの範囲も人間関係の変化も、セイカはいつも人より先を見ていた。つまらない。何もかも自分の予想通りになるのなら、夢を持つ必要なんてないじゃないかと。


(どうせ、終わりなんてすぐに見えてしまうんだから)


そんなときだった。児童の集団誘拐。スクールバスが乗っ取られ、セイカはその中の一人としてテロリストに連れ去られた。裕福な家の子は身代金目当てで、容姿が良ければ高値で売られ、それ以外は武器を持たされるか二束三文で売られるかどちらかだった。セイカも最初は武器を持たされた。子供には重い銃だった。けれど、何かのきっかけで、その情報処理能力を見出されたのだ。そのきっかけを、セイカはもう覚えていない。気が付けば、狭い部屋に閉じ込められ、ひたすら与えられる情報を基に“予測”して人殺しの手伝いをする。そのとき、学んだのだ。自分の能力の使い方を。


(予測、予測、予測)
(修正、修正、修正)


ひたすら行われる反復行為。弾きだし、新たな情報を取り込み、また予測する。セイカはその“遊び”に没頭した。より正確に、より早く、より効率的に。それだけを突き詰めた。けれど、それでもすぐに終わった。突き詰め、セイカは自分の限界をすぐに悟った。それさえも予測の内だった。このまま行けば、近いうちに自分の能力は打ち止めになるだろうと、それさえも予測して、セイカはそこから先を突き詰めることをやめた。自分の行き止まりなど、見たくなかった。知ってしまったが故に、経験したくなかった。それが癖になって、セイカは最後の一歩手前ですべて止めてしまうようになった。可能性を叶えてしまいたくなかった。もう知っているのだから、実感する必要なんてない。一度目は予測で絶望し、二度目は自ら触れて絶望する。何度も失望するぐらいなら、立ち止まってしまった方がましだ。パンドラの箱に希望が残っていたように、セイカも自分の中に希望を残しておきたかった。手つかずの可能性を、輝いたままにさせたかった。だから、最後の一歩が踏み込めない。叶えてしまったら最後、それが途端に色褪せてしまいそうだった。


「………キャスパー、」


その、言葉を。好きよりももっと強い言葉を、セイカは言えない。それが最後の一歩だった。言って、受け入れてもらえたそのときに起こることが、恐ろしくてしょうがない。セイカは与えられた情報を基に人よりも遠い世界を見る。けれど、それはあくまで計算だ。人の心は完璧には計算できない。単純なはずなのに複雑で、一つとして同じ動きをしない感情なんていうものを、セイカは予測することが出来ない。だからこそ、セイカはそこに希望があると思っていた。分からないから希望を見出し、そして、恐れた。見えないものは怖い。予測できないことが怖い。自分の思い通りにならないことが怖い。普通の人間より先を歩くセイカだから、その一歩は闇に踏み出すようなものだった。


――――好きですよ、キャスパー」


きっと彼は知らないだろうけれど、きちんと彼の写真だって撮ってあるのだ。ただ、アルバムではなく携帯に。だから本当は、あんなに嘆くこともなかったのに。あの時のことを思い出すと、まだ口元が笑ってしまう。セイカは携帯を手放せない。彼女にとって、情報から切り離されることは何よりも避けなければいけないことだから。そのデータフォルダの中に、キャスパーの写真があることは誰も知らない。セイカが持っている、ただ一つの秘密だった。ああ、そうだ、とセイカはベッドサイドに置いていた携帯を手に取って、カメラを起動させる。シャッター音はすでに鳴らないように細工済みで、これでキャスパーを起こさずとも存分に寝顔を収めることができる。本人が知ったら嫌がるだろうから、一生黙っておこう。


「はい、チーズ」


誰も聞いていない小さな掛け声と共に、無音のシャッターを切る。それを保存し(もちろん、誰にも見つからないようにフォルダの奥底に仕舞っているのだけれど)、ベッドに放る。セイカはキャスターの頭を撫でながら、不意に思った。初めて会ったとき、あの病院で自分の元に来ないか差し出された手を握った。もしかしたら自分は、あの瞬間から恋に落ちていたのかもしれない。しかし、それが分かったとて、深くなる一方の想いをセイカは決して口に出せない。いつだって、一歩分の距離を余らせてしまう彼女の悪いクセ。だから、精一杯の努力で、声に出来ない想いを告げる。


あいしてます


一歩分に込めた、ありったけの愛の言葉を。